そしてこの古い考定が今日まで続いて残り、俳人、歌人の間にはそれが頭にこびり付いて容易にその非を改むることができず、したがって俳聖、歌聖と仰がれる人でもみなこの誤りをあえてしているから、今日の人々の作り出す新句新歌のうえにもやはり旧慣に捉われひんぴんとしてこの墨守せられた誤りの字面が使われていて、すなわちこれらの人々には草や木の名の素養がまったく欠けていることを暴露しているのは残念である。私はこのような文学の方面でもその間違いはどしどし改めていくことに勇敢でありたいと思っている。今日、日進の教育と逆行するのは決してよいことではあるまい。
全体わが邦で昔だれが杜若をカキツバタだと言いはじめたかというと、今から九百余年前に丹波康頼の撰んだ『本草類編』であろうと思う。そして同書にはまた、蠡実をもカキツバタとなしてある。次に『下学集』にも杜若がカキツバタとなっている。これでみるとカキツバタを杜若であるとしたのはなかなか古いことである。
この杜若なる漢名を用いたのが長い年の間続いたが、今から二百三十四年前の寛永六年にいたって、貝原益軒はその著『大和本草』でカキツバタが杜若であるという昔からの古説を否定し、あわせてその杜若は筑前方言のヤブミョウガ(ツユクサ科のヤブミョウガではない)すなわちハナミョウガ(ショウガ科)であると考定して発表した。
次いで稲生若水、小野蘭山などの学者が出て、今度は杜若はカキツバタでもまたハナミョウガでもなくこれはヤブミョウガ(ツユクサ科)であらねばならぬとの新説を立てた。そして右はこれら景仰せられた一流学者のしたことでもあるので、その後多くの学者はみな翕然《きゅうぜん》としてその説に雷同し、杜若はヤブミョウガであるとしてあえてこれを疑うものはほとんどなかった。
しかるにその後岩崎灌園がその著『本草図譜』で右先輩の説をくつがえし、この杜若なる植物はアオノクマタケラン(ショウガ科に属し支那と日本とに産し暖地に見る)であるとの創見の説を建てたが、これはけだし一番穏当な見方である。すなわち杜若はかくアオノクマタケランだとするのがまず間違いのない鑑定だと信じてよろしい。
これによってこれをみれば、杜若をショウガ科のハナミョウガに当てた貝原益軒の意見は、それは当たらずといえども遠からざる説ではあれど、しかし益軒の卓見がうかがい知られる。なんとならばこれは杜
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