征隊に傭兵として加わった一人であろう。予審ではすっかり自白したが公判廷で証言する段になると牡蠣のように黙ってしまったから、参審一同「暴状」について知悉しているにかかわらず、判定のしようがなかったというのだ。形式上はそんなものかもしれないが、実質的にいかにも割切れない何ものかが残されている。
公判廷におけるジェンキンスは、遠征隊の目的はあくまで、「条約締結」の契機をつくって祖国に利せんとする念慮にほかならなかった旨を主張した。そして遠征事実に関して比較的この裁判事件を詳細に扱っているグリフィスの『仙逸国民《ハーミット・ネイション》』が記している点は、
使用した船は外輪蒸汽船「チャイナ号」六八〇トン。ほかに六〇トンの小蒸汽船「グレタ号」を準備して、黄海を渡るときはチャイナ号に曳航《えいこう》させた。
国旗は北ドイツ連邦旗を掲げた。
乗組遠征隊員は、欧米人八名、マニラ人二十名、シナ人百名。マレイ人およびシナ人は、苦力《クーリー》、船員などを上海で集めたもので、一行の「護衛兵」たるべきものだった。
「艦隊」は一八六八年四月三十日、上海を発して、まず長崎に向った。二日間の長崎寄港中に、石炭、水および「小銃十箱」を積込んだ。むろん「護衛兵」のための武器である。
プリンス・ジェロム湾(牙山《かざん》湾)に着いたのが五月八日(新暦)の金曜日、翌日漢江を遡るという段になって、武器を一同に渡して使用法を教えた云々。
このあたりのことは馬鹿にくわしいくせに、それ以後の肝心な経過についてはほとんど何ら記されてない。そもそもジェンキンスは肝心の撥陵事件そのものをどこまで認めたのか、また認めたとすればこの手段と条約締結という目的との関係を彼はどんなふうに陳弁したのか、いっさい不明に終っている。そしてただ、その後朝鮮人と衝突して死者二名負傷者一名を出したこと、結局前後十日間朝鮮にいて二週間目に上海へ帰りついたこと、結局この公判におけるジェンキンスの陳述には「安全弁から吐出さるる蒸汽ほども真実味も認め難かった」こと、だが結局ジェンキンスは「証拠不充分」で釈放されたこと、そして結局、どうもいっこうに苦々しいはなしなんでして……といった調子なんである。
ジェンキンスが釈放されたから、フランス側はお座なりの領事裁判を開く手数さえ省けたというものだ。そしてお付合までに、問題のアベ・フェロン
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