咸臨丸その他
服部之総
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呑気《のんき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍艦|咸臨丸《かんりんまる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
−−
[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
太平洋をはじめて汽船が横断したのは――といった問題を、ひと頃しきりに調べたことがあった。といったのでは、呑気《のんき》とも好奇とも思われようが、いったい考証というようなものは、前後の問題から切離してみたら、まったく気狂じみたはなしである。
ところが、おかしなもので、はじめはある重要な歴史的関連を明らかにする目的から、――たとえば、この場合では幕末の日本開国を、米国の手で行わせる上に一つの役割をしたのが、横断太平洋汽船航路問題である――ということを明らかにする目的から、太平洋定期航路の発生をしらべはじめてみると、行掛り上その船名や、トン数やといった、いわばどうでもいいようなことがらまで気になってくる。
だが、それでもまだ純粋に好奇的な考証趣味におちこんでしまったとは、かならずしもいえまい。
たとえばある文献に最初の横断太平洋定期就航船は一八六五年(慶応元)で船は米国の太平洋郵船会社の「コスタリカ」、「ニューヨーク」、「オレゴニアン」、「ゴールデン・エージ」のうちのどれかだ、と書いてある。
第二の文献には船名を挙げないで一八六七年にサンフランシスコから横浜に向ったとあり、第三の文献をみると、一八六七年の元旦にサンフランシスコを出て二十二日目に横浜に着いた「コロラド」がそれだとある。
こうなってくると、いったいどれが正しいのか確定したい、ということになってくる。
資料価値の検討、その他々々といろいろ試みるに従って、いつかしら定期航路といわず、およそはじめて太平洋を横断した船は何だ? というふうなことになって困るなと思いながら、そのくせ何とか納得がゆくまではいつまでもへんに頭の隅っこにこびりついてぬけない。いつのまにか問題の出発を忘れて、一見つまらないことに、それ自体のために、せんさくを試み出している。
考証趣味などいうものは、所詮《しょせん》暇人のものであり、暇人でないとできっこないはずだが、われわれのように暇をもたぬ人間は、そのためかえって、そのわずかな暇または偶然に与えられた機会に盗みをするように、かねて気にかかっていたつまらぬことがらを大事件らしくひねくりまわすことができると、その瞬間だけはひどく暇持ちになったような、はなはだのんびりした気持になる。むろんこれまた阿片の類にちがいない。
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
さて、はじめておよそ太平洋を横断した蒸気船は北太平洋ではなく南太平洋の出来事だ。一八五三年まで、一隻の汽船も太平洋を渡っていない。だがこの年一千トンの推進汽船「モニュメンタル・シティ」号(米国船)がサン・フランシスコからシドニーへ渡った。
その所要日数七十五日は、立派な記録と評判されたが、彼女にこれ以上の記録を出す機会は与えられないでしまった。
というのも、この船は合衆国へ引返さず、シドニー・メルボルン航路に廻わされたのだが、その一カ月後、シドニー、メルボルン間の濠洲海岸で難破してしまったからである。
その年の六月ペリーの「黒船」が浦賀《うらが》へはじめて来ているが、これはそれまで日本へ来たすべての米国船と同様に大西洋からインド洋を経てきたものである。
はじめて北太平洋を横断した汽走船――商船といわず軍艦といわず――については残念ながらはっきりしたことがまだ書けない。
北太平洋横断の定期就航汽船の最初のものが一八六二年六月八日にサンフランシスコから横浜に着いたC・W・ブルックス会社の郵便蒸汽船ジョン・T・ライト号(三百七十トン)だったということは、明らかになっているが、それ以前に単独で横断した汽走船としてさしあたって間違いのない記録は、ついこの間まで汽船を見たこともなかった日本の汽走軍艦|咸臨丸《かんりんまる》である。
咸臨丸はその時(万延《まんえん》元年正月、一八六〇)遣米使節を迎えにきた米国汽走軍艦「ボーハタン」より一足先に品川を発って三十七日かかってサンフランシスコへ直航した。「船将」勝海舟《かつかいしゅう》以下日本人ばかりでともかくこの壮挙をやってのけたので、非常なセイセイションを起した。
ボーハタンが太平洋を渡って迎えに来たのかどうか、その前ペリー艦隊中の汽走艦ミシシッピーが、単独で太平洋を渡って帰っていったのでなかったかどうか、これらはまだ調べるための「暇」も機会もありそうにない。
ともかく間違いのない事実として、汽船による
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
服部 之総 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング