コリンス会社を完全にノックアウトした(一八五八年)ほどの実力――柄は小さいがサーヴィスは満点という娘盛りの一大船隊を擁《よう》して控えていた。
 そこで当然、「グレート・イースタアン」にべらぼうな積載容力があればあるほどいよいよ算盤が合わなくなる、という悲劇が生じてきた。そもそもが客と貨物を満載せんことにはやってゆけないはずにできていたのだ。
 そのうち、棄てる神あれば助ける神、という小市民的|譫言《うわごと》を、助けるような出来事が降って湧《わ》いた。旅客でも貨物でもなく、どんな種類の「商品」でもなくたんに一個の使用価値にすぎないところの山のごとき物品を積込む日が、「グレート・イースタアン」を訪れた。商品ではないから、したがってまた「運送」するのでもない。山のごとく積込んだ物を順繰りに大西洋の底へ沈めてゆく「グレート・イースタアン」は、もはや何らの「商船」でもない。皮肉な運命にもてあそばれて商船としては見事落第した彼女がいまは工作船として――海底電線の敷設船として、思いもかけぬ能力を発揮しつつあったのである。
 じっさい、大西洋の一方から他方へ、およそ三千マイルにちかい長さの代物《しろもの》をひっぱってゆくという前代未聞の仕事には、まことにうってつけの彼女であった。彼女を除いたら、どんな大きな船といってもやっと三千トン級で、とうていこの仕事には耐えられなかった。だがこの独占的仕事も、一八六三年から一八七四年まで前後十一年間続いておしまいになった。その頃はもう、優美な複式機関スクリュー船が商船界に君臨して、無格好な外輪をくっつけている図体ばかりでかい彼女をあざわらっていた。用のない彼女は自殺するほかはない。一八九〇年、一世を震撼させた「グレート・イースタアン」は、リヴァープール湾に注ぐマアセイ河のとある場所で解剖されて鉄片となった。

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

「グレート・イースタアン」はいいみせしめとなった。彼女が進水してから三十年間というものは、その大きさの半分に達する船さえついに一|艘《そう》も造られていない。そして、彼女を凌駕すること四百四十七トンという大船が生れたのは、やっと一九〇一年――彼女の誕生日から数えて実に半世紀の後であった。しかし英国旗をひるがえすはずもない。英帝国主義の一大敵国にまで発展した新興ドイツをシンボライズする、一万九千三百六十一トンの「カイゼル・ウィルヘルム二世」がそれである。
「グレート・イースタアン」から「カイゼル・ウィルヘルム二世」にいたる半世紀の間、技術上の進歩はどの方面で行われていたか? 船体の構造についていえば、トン数の割合にいやに細長くなったことである。そのため速力が増し、同時に中央部船室の数が殖えるという一石二鳥の徳がある。むろんライナーの話で貨物船はべつだ。何よりの発達はいうまでもなくエンジンで、複式エンジンのことは前に書いたが(それとともに外輪《パドル》は永遠に博物館物になった)、一八八一年には三段膨脹機関《トリプル・エキスパンション・エンジン》、一八九四年には四段膨脹機関《カドラプル・エキスパンション》が発明されて、そのたびに汽船はいよいよ「経済的に」なっていった。「グレート・イースタアン」がべらぼうな図体に設計されたのは単式機関の欠陥を補うための手段だった。これに反して「カイゼル・ウィルヘルム二世」は時速二三ノット半を平気で出しうる双スクリュー四段膨脹エンジンの性能を百パーセント発揮するために、半世紀の間忘れられた怪物的巨体を恢復《かいふく》したのである。
 汽船の凱歌《がいか》は帆船にとっては輓歌《ばんか》であった。「グレート・イースタアン」が起工される四年前、一八五〇年の数字で、全世界の船舶総トン数は九百三万二千トン、そのうち八百三十万トンすなわち九一・九%までは帆船であった。ところが「カイゼル・ウィルヘルム二世」が進水する一年前、一九〇〇年には、総トン数二千六百二十万五千トンのうち六一・九%までは汽船になっていた。
「グレート・イースタアン」は鉄造船の権威を確立したけれども汽船としては、換言すれば帆船にたいする新たなる世紀の挑戦者としては、失敗した。帆船はかえって自己を鉄造化することによって、なおしばらくのあいだ、汽船にたいする優越的地位を保つことができた。むろん旅客だけは汽船に譲らなければならなかった。が、年とともに激増してゆく貨物の運輸という部面では、鉄造帆船が商業上の優勝者として残った。全世界の帆船トン数は一八八〇年までは年とともに殖えていっている。
[#ここから2字下げ]
一八五〇年   〇、八三〇万トン(九一・九%)
一八六〇    一、一八四   (八九・一%)
一八七〇    一、四一一   (八四・二%)
一八八〇    一、四五四   (七二・九%)
[#ここで字下げ終わり]
 括弧《かっこ》のなかは帆汽船合計船舶総トン数にたいする帆船トン数の比率である。帆船は一八八四年まで年々殖えてゆき、同時にまた[#「同時にまた」に傍点]減ってゆきつつあったのである。
[#ここから2字下げ]
一八九〇    一、二〇二   (五四・〇%)
[#ここで字下げ終わり]
 実数の上でも減った。貨物が帆船から汽船に奪われてゆくのだ。貨物は何よりも資本家的商品である。何月何日にロンドンから、メルボルンから発送すれば、何月何日までにヨコハマへ、シスコへ着くという見とおしが何はおいても必要である。いかにも帆船の方が運賃は安いが、運賃をいっておれないもっと大きな利益が、運輸時日の確時性《パンクチュアリティ》という一事から生れる。
 帆は風まかせ。
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一九〇〇      九九九万トン(三八・一%)
[#ここで字下げ終わり]
 帆のない汽船トン数の方が、絶対的にも相対的にも殖えたのである。石炭を焚《た》いて臭い煙を吐く蒸汽船に、たとえば茶のような商品は、いかになんでも、積むことができない。そのほか果実《くだもの》――その他およそ「生身《なま》の貨物」だけは、いつまでも帆船のものである。という意見が船舶業者の間でも、陸の商人の間でも、長いこと行われていた。そんなわけで、帆船芸術の極致といわれた数々のティー・クリッパアは、汽船が太平洋を渡るころになっても、依然として南シナ海、インド洋および太平洋の女王だった。ところが一八六三年にとある果敢な荷主が出て、上海《シャンハイ》からロンドンまで一千二百五十トンの新茶を蒸汽船ロバート・ロウエ号に運送させた。そして、新茶の香気が汽船によっていささかも損われないという事実を実証した。それでもまだその後十年ほどは、茶は帆船にという偏見が維持されていた――ただしその後十年だけのことである。
 果実をはじめ、マトン、ラム、ビーフ、バター、ミルク、野菜、魚類等々の「生身《なま》の貨物」にいたっては、汽船はいけないどころか、汽船によってはじめてこれらの貨物は長距離輸送が可能になった。最初の冷蔵船が英濠間を往復したのは一八八一年である。その前年、試験的に濠洲からロンドンに運ばれた羊肉はわずか四百頭分にすぎなかったのが、一九〇一年には濠洲から百二十二万五千頭、ニュージーランドから三百二十三万頭、アルゼンチンから二百六十万頭分――換言すれば冷蔵船の出現によって濠洲以下ははじめてヨーロッパのための生肉供給所となることができたのである。
 汽船はいまはあらゆる貨物を帆船から奪っていったばかりでなく、帆船時代には存在しなかった貨物を新たにつくり出しさえしたのだ。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 ことのついでに日露戦争の年、一九〇五年をとってみよう。
[#ここから2字下げ]
一八八〇   一、四五四万トン(七二・九%)
一八九〇   一、二〇二   (五四・〇%)
一九〇〇     九九九   (三八・一%)
一九〇五     九五六   (三〇・九%)
[#ここで字下げ終わり]
 これは世界中の商帆船トン数と、それの総商船トン数にたいする割合であった。したがってこの数字は、平均化されている。おのおのの国についてみれば、帆船の敗退はあるいはもっと早く、あるいはもっと遅れて、起っている。英本国では一八九〇年に帆船トン数の比率は三六・八%に減っており一九〇五年には一五・六%――この年の全世界の平均比率の約半分である。
 これにたいしてノールウェイでは、一九〇五年になっても五五%、ロシアでは同じく五三・六%――これらの国々は、やっと一八九〇年当時の世界的水準に、この点では、停滞していたということができる。
 わが大日本帝国では――
 一九〇五年の帆船トン数三三四、六八四トン、汽船トン数九三八、七八三トン。総商船トン数にたいする帆船トン数の比率は二六・三%。この年の各国平均比率三〇・九%よりいいばかりでなく、英国の一五・六、ドイツの二二・四には及ばないがフランスの四八・七、合衆国の三七%にくらべてずっといい。
 もっと昔、明治二十三年、一八九〇年、世界全体としてはまだ帆船の方が多かった。英本国では帆船トン数の比率は三六・八%だった。ところが日本は、なんと、三三・八%。
 けれども、同じ年、一国における汽船トン数の多さ、帆船トン数の少なさ――のトップを切っている国は、日本ではなくシナであって、曰《いわ》く二八%、一九〇五年で三〇%。
 何の不思議もないはなしである。シナや日本のような東洋の君子国にとっては、汽船と同様に西洋型帆船もかつてはすべて「夷狄《いてき》」のものでしかなかったのだから。
 そのかわり、いったん「西洋文明」をこの方面でも採用する段になると、鉄の船は浮ぶはずがあるまいの、なまものは汽船には積めまいの、といった苦労をはじめ、およそ「グレート・イースタアン」式の悲劇いっさい、味わう必要もなかったのである。
 ペリーの「黒船」に上下顛倒して数年たたぬうちに、幕府だけでなく薩藩その他までが、自ら黒船の所有者となり、そのなかにはペリーの旗艦「サスクハナ」にひけをとらぬ、代物《しろもの》すら見出されたというわけである。
 だが、幕末の日本軍艦の大部分は半汽走船――補助汽走船だった。汽船と帆船の混血種であり、汽船と帆船の一世紀にわたる闘争の間からさまよい出た折衷派である。

[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]

 どんな闘争でも、折衷派という奴をうみ出す。
 最初の補助汽走船はアメリカの帆船業者がつくり出した。一八四五年に補助スクリューを装備された七百トンのクリッパー「マサチューセッツ」がそれで、一等船客三十五名を収容できる優美な船だった。これをもってアメリカの船舶業者は、一八三七年以来北大西洋の旅客をかっ浚《さら》った英国のキュナード汽船に対抗しようとしたのである。そもそも最初の補助汽走船が、形式は混血種でも、けっして汽船業者の利益のためでなく、これを敵とする帆船業者の武器として発明されたという点を、銘記しておくことが必要だ。
 もっとも、生れたての汽船も、補助汽走船みたいなものだった。だが、その場合あくまで帆の方が補助機関であって、汽船が完成されるにつれて帆も帆柱もなくなってゆき、今日では、尾底骨《びていこつ》的存在にまで退化してしまった。
 いわゆる補助汽走船は、本来帆船であり、あくまで汽船に対抗するための、帆船の変形物にすぎない。だから汽船が発達して、補助の帆柱を単なる旗竿に使うようになっても、いわゆる補助汽船はけっして跡を断たなかった。失敗しても失敗してもあとからあとからできていった。没落する帆船業者の悲鳴的利害をその基礎にもっていたからであった。
 一見補助汽走船はうまくいくように思える。風のあるかぎり帆を掲げて、一文も使わず時にいいかげんな汽船以上の速力もでる。天候一変すればエンジンをかけて稼ぐから、……だから折衷主義を「日和見《ひよりみ》主義」というのである……ほぼ間違いなく予定日数を約束することもできて、汽船より安い賃銀で、汽船のもつ最大の利益――パンクチュアリティ――を大方の顧客に提供
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