英国海軍ですら、鉄造戦艦をはじめて持ったのが一八六〇年である。
ところで木造船では三百フィートというのが構造上の極限だった。大西洋に就航した木造(汽)船では長さ二百八十二フィート三千トン(一八五〇年)というのが最大である。汽船帆船を問わず激化する競争は否応なしに大船を要求した。
テイラア号の難破に遅れることわずか四年、一八五八年に英国で起工した長さ六百八十フィート、幅八十二フィート、一万八千九百十四トンという巨大船「レヴィアザン」こそ、鉄造船にたいする半世紀にわたる頑強な杞憂《きゆう》を永遠に吹飛ばした、「自然にたいする闘争」のこの方面における決定的勝利のシンボルだった。ところが経済的に落第してしまった。
というのも――
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
船材としての木と鉄の競争は、帆船と汽船の闘争とはまた別のことがらであった。強いていえば帆船は鉄造船時代に入るとともに最後の発展段階に到達して、なお初期の発達段階にあった汽船にたいする競争力を一時増したのである。
それにたいする汽船の究極の勝利は、エンジンの発達によって購われた。単式低圧機関から複式高圧機関へ、三段膨脹《トリプル・エキスパンション》ないし四段膨脹《カドラブル・エキスパンション》機関へ、タービンおよびギア・タービン機関へ、内燃機関へ――ここで現在の時点が争われている。
複式機関の発明からタービン機関船までの発展はわずか三十年で行われたが、汽船史上の最も興味のある時代はむしろ、フルトンのクレルモント号の進水(一八〇七年)から数えて六十年間にわたる単式機関船時代にある。あらゆる技術上の驚異的成果にもかかわらず、単式機関船時代には、経済的に、帆船にたいする勝利はついに不可能に終ったのである。
これは汽車のはなしだが、スティーヴンソンの最初の試験的な機関車がキリングウォース炭坑で一年間石炭を運搬したときの算盤《そろばん》は、馬に牽《ひ》かせる場合の費用とまさに同じだった。技術的には進歩だが経営経済の上では何の足しにもならなかった。機関車の食糧節限――一馬力当りの石炭消費率の減少を可能にしたスチーム・ブラストの発明(スティーヴンソン、一八一五年)がはじめてストックトン=グーリントン鉄道(一八二五年)を旅客用にも貨物用にもひとしく「経済的」に完成させたのである。
陸のスチーム・ブラストに対
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