と英の彼阿《ピーオー》を駆逐することができた。
日本郵船が早くも九〇年代に太平洋航路にゆえいを争うこととなったのをみて、何も不思議とするには当らない。日本は汽船の前史を所有しなかったからこそ、汽船の後史を先進国以上の組成において、つまり前史時代の雑物を含まない序列で、所有することをえたのである。
もとより、その歴史的機能に徹しては傍若無人の概ある維新政府が、あったればこそのはなしだ。
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(1) 米墨戦争と同時にコロン・パナマ鉄道が企画されて五五年に完成した。
運河の方は四九年に「米国太平洋大西洋運河会社」というのができて、五一年に完成した。ニカラガ国内を通ずるもので、スエズ運河開通前のいわゆる overland route に似たものだった。河と湖をつないで汽船を通じ、残りは国道で連絡した。これが完成する前はチャグレス・パナマ間の道路で連絡した。
(2) 帆船汽船ともにいれた全世界商船トン数にたいする帆船トン数の割合をみても、一八五〇年九二%、七〇年に八四%、九〇年に至って半分、一九一〇年になるとすっかり減って二一%になった。カーカル
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