がはじまっていた。英国の船大工によしフライング・クラウドを打負かす技術があったとしても、「三角航海」の経済的優越をそもそもどうして処理できたのか?
 神様のお陰で! このとき英国商船にも新しい「三角航海」が恵まれたのだ。一八五一年、濠洲に金鉱が発見された。南太平洋の新黄金狂時代は、五二年から英、濠、支の三点を結ぶ帆船洪水路を産み出した。シドニーでアルゴノーツとそのショベルとその長靴などを陸揚げした船は、今度は空荷で一気に上海まで北上すればよい。神様でないマルクスに金鉱の予言までさせようたってそれは無理だ。
 それにしても、なぜ汽船は姿を見せなかったのか?
 一八五一年から十五年間にわたるいわゆる tea−clipper 時代の、火の出るような英米汽船競争を通じてますます茶帆船構造の発達をみ、いろいろな制限下にある汽船の追随をゆるしそうもなくみえたことも、一つの理由ではあろう。またシナの内乱――五〇年から六四年にいたる長髪賊――が何程かの理由を提供するかもしれない。だが何といっても決定的な原因は、シナ海に英米クリッパーの競争が行われるのと時を同じうして、それと劣らぬ激しさの英米汽船競争が、北大西洋に全力を集中して戦われつつあったことだ。
 四〇年代の北大西洋は汽船は英、帆船は米ときまりがついていたのが、五〇年早々米国のコリンス会社が政府の強力な補助金(年十万ポンド)をえて、英国のキュナード汽船(政府補助金八万一千ポンド)に挑戦した。まず英の二千トン級にたいする米の三千トン級。猛烈な速力競争――例のように賭が流行する。賃銀競争――キュナードの独占時代トン当り七ポンド十シリングだったのが、その半分になる。五年後(一八五五)英国側は同じく両輪《パドル》船ではあるがしかし鉄造の三千三百トンという巨船を送り出す。米国側も負けてはいず、政府補助金額を年十七万九千ポンドに増加する。
 それは大西洋の「内海」化を物語っている。コリンス会社は二隻の優秀船を失う災厄を見たが、ぜがひでも勝たなければならない。算盤《そろばん》を度外に置き全米の知能と技術を傾けて、未聞の新鋭汽船アドリァチックが進水した。一八五八年のことだ。英国側は濠洲航路のために造られた超巨船一万八千九百十四トンの「グレート・イースターン」を大西洋に動員した。むろん欠損だ。ところで、米国側は、欠損どころか破産してしまった! 一八五八年のことである。
 一八五四年に「和親」条約が成功しても太平洋に汽船が通う余裕がなかったのだから、そして、当の五八年「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだったから、結局、実は横断汽船のための和親条約をもって、単なるくどき落しの一手だったと、後世認められたからとて仕方がない。男女の間にも、よくあるやつだ。
 ところで、二年経つとアメリカの内乱である。六〇―六五年の南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米クリッパー戦は完全に英国の勝利に帰していた。the clipper race はもはや英国船同志の間で行われる例年のスポーツと化していた。そして大西洋では、最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、英国旗をなびかせていた。
 南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を勝利させた。そして帆船も汽船も鉄でつぎに鋼で造られるようになると、もう英国の重工業が物をいった。しかも六九年になると、スエズ運河が開通する。日本を開いた殊勲は米国のものだったのに、ヨコハマ当初の貿易額の八〇%は英国のものだった。
 よろよろと起ち上った拳闘選手みたいに、太平洋郵船《パシフィック・メイル》会社の「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月元旦のことだった。彼女に北太平洋最初の横断汽船たる名誉はめぐまれてなかったが、そもそも太平洋横断をはじめから予定してカリフォルニア黄金狂時代に生れ出たこの会社の船としては、彼女は初志を――あまりにも遅く!――遂げた最初のものである。
 サーヴィスは月一回、姉妹船に、China, Japan, America などがあった。いずれも図体は四千トンにちかい、しかし木造の、使い古した単式機関両輪船で、大西洋上の鉄造複式機関船にくらべてまさに前世紀の遺物である。サンフランシスコ横浜間二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日――十数年前の、米国海軍委員会報告書の予定にすら足りない!
 しからばはじめて北太平洋を横断した汽船――商船――は資料について首をひねるほど小さな船だ。370 トンと記された活字に誤がないものなら、これは内乱最中、一八六二年の米国そのものの焦燥をおよそうらさびしく象徴したものというほかはない。
 文久二年の横浜寄港船名表中に、
[#ここから3字下げ]
船名      Joh
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
服部 之総 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング