った。第二に当時のシナ貿易も、いわゆるティー・クリッパーはほとんど空荷でシナに向うのが常だった。誠に一八五二年当時の英支貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。
 だからこの米国船の三角路《スリー・コーンド》と英船の往復路《アウト・エンド・ホーム》と競争させたら、勝負の数は明らかだ。まず黄金狂患者が創り出した米船の画時代的なスピードが物をいう。つぎに三角路の方には途中でカリフォルニア貿易というおまけが付く、したがって運賃のうえでも物がいえる(3)。
 はたして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四角航路となった。米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも一時はほとんど独占した。
 フライング・クラウド号はそのうるわしい姿のためにロングフェローに The Building of the Ship を物させた。フライング・クラウドの船長クリージイはリンドバーク大佐のように国中の人気者となって、ワイワイ騒ぎから身をまもるために田舎に姿をくらまさなければならぬほどだった。彼とその船乗こそ、一八五一年の「七つの海」――太平洋とシナ海とインド洋と大西洋を掌握した米国海運業の、そしてそれが起因をなしたカリフォルニア黄金狂時代の、もっとも美しい誇らしいシンボルだったのだ。
 速力の点では三角路の方が距離においてずっと長かったにかかわらず、英船の往復日数に比べて約一ヶ月の差しかなかった。いわんや同一の上海ロンドン間では、五〇年代のスピード・レコードは一つ残らず米船に占められている。

[#7字下げ]七 最初の横断汽船[#「七 最初の横断汽船」は中見出し]

「フライング・クラウド」に象徴されたカリフォルニアン・クリッパーは近代資本主義最初の東廻選手として、世界を西からでなく東から円形に仕上げた。「和親」条約はその帆船路に黒船の煙をたなびかせるための条件達成をいみした。五〇年初頭のマルクスの予見どおりに、運命は黄金狂時代のアメリカ合衆国に微笑みかけ、微笑みつづけるもののようだ。
 しかるに、ハリスのもとにお吉《きち》が通う日が来ても、汽船は太平洋を渡らなかった。そればかりでなく、ひとたび東廻選手によってほとんど独占されたシナ英国間の茶貿易に、ふたたび激烈な英米帆船の競争時代
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
服部 之総 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング