「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋を覗《のぞ》いたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿《ピーオー》)は、スエズを[#横組み]“overland route”[#横組み終わり]で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった!
 太平洋を横断するための性能がまだ汽船になかったのであるか――昨今までの段階における飛行機のように?
 どうして! すでに一八四三年に三千二百七十トン一千馬力というのが北大西洋に煙を吐いていた。よし両輪《パドル》船だろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとりさえすれば、ボイラーの水は六十年代中頃まではふんだんに海水を使っていたのだ。実際これに似た技術条件の下で、英濠間を無寄港で乗切れる一万九千トンの巨船が、五十年代の海に浮んだものである!
 で、渡ろうと思えば――渡るだけのことなら――いつでもできた。しかし、だいいち帆船にしてもが、一八四九年以前には、よくよくの珍しい例外はあったが、米支をつなぐのに太平洋を用いなかった。
 日本開港の日までシナは扁平な世界および世界市場の極東端だった。三十年以来シナ市場は絶間《たえま》ない英米競争の場所だった。一八四二年の五港開放以後、世界経済中に占めるシナ市場の位置――対支貿易の量――は、ことに重要性を帯びてきた。太平天国の乱によってシナ市場が閉鎖されたら欧洲に革命が起る、とマルクスが叫んだほど。
 そのシナの茶とアメリカ人参《にんじん》の往返が太平洋を忌避し、太平洋が帆船にとっても超ゆべからざる地表の大クレヴァスだったわけというのは――
 第一にアメリカ合衆国が一八四六年までは太平洋岸を所有していなかったこと。
 第二に太平洋岸の米大陸が、一八四八年まで何らの市場を――なによりも人間そのものを約束していなかったことである。

[#7字下げ]二 カリフォルニア黄金狂時代[#「二 カリフォルニア黄金狂時代」は中見出し]

 ニューヨークを出た船はケープホーンを廻って太平洋へ首を出すまでには、立派に喜望峯《きぼうほう》をめぐってインド洋へ出ていられる。インド以東がどんなに遠かろうと、いたるところ商利を約束する港々に満ち
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