《あるじ》を見ると心の中で思わず「あッ」と叫んだ。
「伝七殿と申されるか。わしは袖の父、真斎《しんさい》でござる」
床の上へ坐っているのは、業病《ごうびょう》も末になったのであろう。顔は崩れ、声は嗄《か》れて、齢さえも定かでない老人であった。
「どなたにも、お目に掛からぬのじゃが、御用の筋と聞いてお通し申した。どのようなことでござろうか」
「ほかでもござんせんが、実は、袖ノ井さんの朋輩衆《ほうばいしゅう》の、伊吹屋のお由利さんが、ゆうべ急に亡くなられましたんで、袖ノ井さんに、何かとお訊ねいたしたいと存じやして……」
「何と云われる。由利殿が亡くなられた?……あの娘御とは、殊《こと》の外《ほか》親しくいたし、昨夜もここへ見えられたが……」
「左様でござんすか。そんなに、仲よくしておいでなすったんで?……」
「左様。着る物も髪のものも、みな揃いのものを、用い居ると申して居ったが、袖が聞いたら、さだめし嘆くことでござろう」
十年の長い間、病床に引《ひ》き籠《こも》ってはいるものの、以前は松平伊予守の典医《てんい》を勤めていた真斎《しんさい》とて、その言うところは、人柄をしのばせるものがあ
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