梅窓院の近くにある薬種問屋《やくしゅどんや》伊吹屋源兵衛の家では、大奥に奉公に上がっている娘の由利《ゆり》が、今夜は特に宿退《やどさが》りを頂けるとあって、半年振りに見る顔が待ち遠しく、先ほど妹娘のお春に、手代の常吉をつけて、途中まで迎えに出したのであったが、奥の座敷に接待の用意が出来ると、源兵衛はしびれを切らした挙句《あげく》、すでにとっぷり日の暮れた門口へと、首から先に出向いたのだった。
 ふと気がつけば、いつの間にやら女房のお牧も、源兵衛の背後に寄り添って、百人町の方角へと首を伸ばしていた。
「ねえ、旦那。今夜お由利が帰ってきましたら、平太郎さんとの話を、すっかり決めて、一日も速くお城から退《さが》るようにしたいもんですねえ」
「それはわたしも、望んでいるんだが、お由利の便りでは、上役の袖《そで》ノ|井《い》さんとやらが、可愛がって下さるとかで、急いで退りたくはないとのこと。今時の娘の心はわたしにゃ解《げ》せないよ」
「何んといっても、町家の娘が、いつまでも御奉公をしているのは、間違いの元ですよ。……そういえば、本当に遅いようですが、何か変わったことでも、あったんじゃござんせん
前へ 次へ
全39ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング