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この度立ちかえりて、父の病いが業病《ごうびょう》なりしことを知りおどろき、ましてやその姿を由利どのに見られし悲しさは、たとえるものもこれなく候《そうろう》。由利どのとの睦《むつ》みもこれまでなるべく、またその口よりお城へ洩《も》れ候節は、いかなる大事となるやも計られず、いまは自ら死を覚悟いたし申し候。ついては深夜、由利どのと忍び逢うやくそくなりしをさいわい、伊吹屋へまいり、眠る由利どのを一刺《ひとさ》しにいたし申し候。この身もその場にて、死するつもりに候わしかど、病父に引かれて立ちかえり時移るうち、早くも調べの手はのびて、万事|休《きゅう》し申し候。取調べの町人は情けある人とて一夜の猶予《ゆうよ》を与えられ候まま、父に手あつく仕えし上、暁け方眠りにつくを待ちて玉《たま》の緒《お》を絶《た》ち、返す刀にて自らも冥途《めいど》の旅に上り候。あの世には悩みも恨みもこれあるまじく、父の手を執りて由利どのを追い、共に白玉楼中《はくぎょくろうちゅう》の人となるが、いまはの際《きわ》の喜びに御座候。
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「おいお俊。やっぱり二人は、おめえの云ったような間柄だったんだなア」
「あたしには、判りませんけれど、その書置きを聞いていて、つい泣いてしまいましたよ」
岩吉へ茶を持って来たお俊は、袖口を眼に当てた。
「親分は、あっし達が、常吉をしょっ引いた時、もう袖ノ井に当たりをつけておいでなすったんでござんすか」
「いいや、そうじゃねえ。ただ乳房を一刺しにした腕前は、町人にゃ、ちょいと難しいと思っただけだ。真斎《しんさい》の話を聞いているうちにこいつア袖ノ井だと、はっきりと判ったが、使いを寄越されてみると、一晩だけア騒がねえで、その最後を浄《きよ》くさしてえと、黙って手を束《つか》ねていたわけだ。……岩さん御苦労だったの。それで、お届けの方は、すっかり済んだかい」
「へえ。ああいう女中衆は、こんなことになると、きのうのうちに、お暇が出たことになりやすそうで。……後始末は留五郎親分に、すっかり委《まか》されやした。いま取り混みの最中でござんす」
「そうか。おいらも後から顔を出すが、何分宜敷く頼むと、留五郎どんに、くれぐれも伝えてくんねえ」
「へえ、かしこまりました」
そう云うと岩吉は、急に立ち上がって、しかつめらしい顔をした。
「伝七親分。このたびは真《まこと》にどうも有難うござんした」
岩吉は不器用に頭を下げると、忙しそうに帰って行った。
「お俊、係り合いだから、香奠《こうでん》を包んでくんねえ」
「はい」
伝七はそう云ったが、盂蘭盆《うらぼん》に死んで行った薄命の女達を悼《いた》んだのであろう、その眼は涙に濡れていた。
常吉が、即日釈放されたのは云うまでもない。
底本:「競作 黒門町伝七捕物帳」光文社文庫、光文社
1992(平成4)年2月20日初版1刷発行
親本:「黒門町捕物百話」桃源社
1954(昭和29)年発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2010年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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