は、もはや口を听《き》く元気もなくなって、遂に道端の天水桶の下へ屈んでしまったのだった。
回礼は中途で止めにして、京山はそのまま家に連れ戻された。
火鉢の抽斗《ひきだし》の竹の皮から、母の手でまっ黒な「熊の胃」が取出されると、耳掻の先程、いやがる京山の口中へ投げ込まれた。京山は顔を紙屑のようにして、水と一緒に咽《のど》の奥へ飲み下した。
「にがい。――」
「我慢しろ。おめえが腹痛《はらいた》を起したのが悪いんだ」
頑固な父は、年賀を中途で止めにした腹立たしさも手伝ったのであろう。笑顔ひとつ見せずに、こういって額へ八の字を寄せた。
それでも京山の腹痛は二時《ふたとき》ばかりのうちに次第におさまって、午少し過ぎには、普段通りの元気に返っていた。が、父は要心のためだといって、今度は茶碗へ解《とか》した「熊の胃」を、京山の枕許へ持って来ていた。
「苦くても、我慢してもう一度飲むんだ」
京山は怨《うら》めしそうに父を見上げたが、叱られるのを知って、拒むことも出来ず、ただ黙って頷いた。
「兄ちゃん」
父が去ってしまうと、京山は京伝と熊の胃とを見くらべながら、小声で訴えた。
「おいら、苦いから、もういやだ」
「いけない。飲まないと、あとでお父っあんに叱られるよ」
「もうお腹は癒《なお》ったから、飲まない」
そこへ次の間から父の咳《せき》払いが聞えた。と、その刹那、突如として京伝の指は茶碗を掴んだ。そして苦い熊の胃は、忽ち一滴も余すところなく、京伝自身の喉《のど》を通って、胃の腑へ納まったのだった。
次の瞬間、果して父は障子を開けていた。が、茶碗の中に薬のないのを見ると、再び黙って頷いたまま、部屋の方へ戻って行った。
「兄さん」
固く手を握りしめた弟の眼には、熱い涙が溢《あふ》れていた。同時に京伝の胸にも、深く迫る何物かが感じられた。
いま筆硯をふところに飛出して行った弟の身の上に、十七年の歳月は夢と過ぎたが、しかも夢というには、余りに切実な思い出ではなかったか。
「あいつの心に、おれの半分でも、あの時のことが蘇《よみがえ》ってくれたら。……」
京伝は、ひそかにこう呟《つぶや》きながら、十日近くも手にしなかった、堅い筆の穂先を噛んでいた。
三
「ふふ、京伝という男、もうちっと気障《きざ》気たっぷりかと思ったら、それ程でもなかった。あの按配《
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