もったい》ないじゃないか」
が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附《くぎづけ》にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。
「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」
そういって女が苦笑した刹那《せつな》だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶《じだ》を顫《ふる》わせた。
「あッ。――」
「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」
「へえ。――」
しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の閾《しきい》を跨《また》いで、路地の溝板《どぶいた》を踏《ふ》んでいた。
「か、駕籠屋《かごや》。か、茅場町《かやばちょう》だ。――」
跣足《はだし》の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。
三
自分の家の畳の上に坐って、雇婆《やといばばあ》の汲《く》んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸《どうき》がおさまらなかった。
あの顔、あの声、あの足音。――そ
前へ
次へ
全29ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング