手《て》は、名匠《めいしょう》が毛描《けが》きでもするように、その上《うえ》を丹念《たんねん》になぞって行《い》った。
 眼《め》、口《くち》、耳《みみ》。――真白《まっしろ》に塗《ぬ》りつぶされたそれらのかたちが、間《ま》もなく濡手拭《ぬれてぬぐい》で、おもむろにふき清《きよ》められると、やがて唇《くちびる》には真紅《しんく》のべにがさされて、菊之丞《きくのじょう》の顔《かお》は今《いま》にも物《もの》をいうかと怪《あや》しまれるまでに、生々《いきいき》と蘇《よみがえ》った。
 おせんは、じッとその顔《かお》に見入《みい》った。
「吉《きち》ちゃん。――もし、吉《きち》ちゃん」
 次第《しだい》におせんの声《こえ》は、高《たか》かった。呼《よ》べば答《こた》えるかと思《おも》われる口許《くちもと》は、心《こころ》なしか、寂《さび》しくふるえて見《み》えた。
「――あたしゃ、これから先《さき》も、きっとおまえと一|緒《しょ》に、生《い》きて行《ゆ》くでござんしょう。おまえもどうぞ、魂《たましい》だけはいつまでも、あたしの傍《そば》にいておくんなさい。あたしゃ千|人《にん》万人《まんにん》の人《ひと》からいい寄《よ》られても、死《し》ぬまで動《うご》きはいたしませぬ。――もし、吉《きち》ちゃん。……」
 ぽたりと落《お》ちたおせんの涙《なみだ》は、菊之丞《きくのじょう》の頬《ほほ》をぬらした。
「これはまァ折角《せっかく》お化粧《けしょう》したお顔《かお》へ。……」
 おせんはもう一|度《ど》、白粉刷毛《おしろいばけ》を手《て》に把《と》った。と、次《つぎ》の間《ま》から聞《きこ》えて来《き》たのは、妻女《さいじょ》のおむらの声《こえ》だった。
「おせんさん」
「は、はい。――」
「お焼香《しょうこう》のお客様《きゃくさま》がお見《み》えでござんす。よろしかったら、お通《とお》し申《もう》します」
「はい、どうぞ。――」
 あわてて枕許《まくらもと》から引《ひ》き下《さ》がったおせんの眼《め》に、夜叉《やしゃ》の如《ごと》くに映《うつ》ったのは、本多信濃守《ほんだしなののかみ》の妹《いもうと》お蓮《れん》の剥《は》げるばかりに厚化粧《あつげしょう》をした姿《すがた》だった。

 おせん (おわり)



底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房
   1955(昭和30)年9月初版発行
   1955(昭和30)年11月30日8刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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