《りょう》といやァ、おいらのような貧乏人《びんぼうにん》は、まごまごすると、生涯《しょうがい》お目《め》にゃぶら下《さ》がれない大金《たいきん》だぜ。そいつをいかさま[#「いかさま」に傍点]だかさかさま[#「さかさま」に傍点]だかにつるさげて、物《もの》にしたと聞《き》いちゃァ、志道軒《しどうけん》の講釈《こうしゃく》じゃねえが、嘘《うそ》にも先《さき》を聞《き》かねえじゃいられねえからの。――相手《あいて》が橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》だったてえな、ほんまかい」
「おめえさん、それを聞《き》いてどうしようッてんだ」
 顔《かお》をしかめて、春重《はるしげ》を見守《みまも》ったのは、金蔵《きんぞう》に兄《あに》イと呼《よ》ばれた左官《さかん》の長吉《ちょうきち》であった。
「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那《わかだんな》に借《か》りてえと思《おも》ってよ」
「若旦那《わかだんな》に借《か》りるッて」
「まずのう。だが安心《あんしん》しなよ。おいらの借りようッてな、二十五|両《りょう》の三十|両《りょう》のという、大《だい》それた訳《わけ》のもんじゃねえ。ほんの二|分《ぶ》か一|両《りょう》が関《せき》の山《やま》だ。それも種《たね》や仕《し》かけで取《と》るようなけちなこたァしやァしねえ。真証《しんしょう》間違《まちが》いなしの、立派《りっぱ》な品物《しなもの》を持《も》ってって、若旦那《わかだんな》の喜《よろこ》ぶ顔《かお》を見《み》ながら、拝借《はいしゃく》に及《およ》ぼうッてんだ」
「そいつァ駄目《だめ》だ」
「なんだって」
「駄目《だめ》ッてことよ。橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》は、たとえお大名《だいみょう》から拝領《はいりょう》の鎧兜《よろいかぶと》を持《も》ってッたって、金《かね》ァ貸しちゃァくれめえよ。――あの人《ひと》の欲《ほ》しい物《もの》ァ、日本中《にほんじゅう》にたったひとつ、笠森《かさもり》おせんの情《なさけ》より外《ほか》にゃ、ありゃァしねッてこった」
「だから、そのおせんの、身《み》から分《わ》けた物《もの》を、おいらァ買《か》ってもらいに行《い》こうッてえのよ」
「身《み》から分《わ》けた物《もの》。――」
「そうだ。他《ほか》の者《もの》が望《のぞ》んだら、百|両《りょう》でも譲《ゆず》れる品《しな》じゃねえんだが、相手《あいて》がおせんに首《くび》ッたけの若旦那《わかだんな》だから、まず一|両《りょう》がとこで辛抱《しんぼう》してやろうと思《おも》ってるんだ」
「春重《はるしげ》さん。またお前《まえ》、つまらねえ細工物《さいくもの》でもこしらえたんだな」
「冗談《じょうだん》じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天《てん》から訳《わけ》が違うンだぜ」
「訳《わけ》が違《ちが》うッたって、そんな物《もの》がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」
「ところが、あるんだから面白《おもしれ》えや」
「そいつァいってえ、なんだってんだい」
「爪《つめ》よ」
「え」
「爪《つめ》だってことよ」
「爪《つめ》」
「その通《とお》りだ。おせんの身《み》についてた、嘘偽《うそいつわ》りのねえ生爪《なまづめ》なんだ」
「馬《ば》、馬鹿《ばか》にしちゃァいけねえ。いくらおせんの物《もの》だからッて、爪《つめ》なんざ、何《な》んの役《やく》にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減《かげん》にしてくんねえ」
「ふん、物《もの》の値打《ねうち》のわからねえ奴《やつ》にゃかなわねえの。女《おんな》の身体《からだ》についてるもんで、年《ねん》が年中《ねんじゅう》、休《やす》みなしに伸《の》びてるもなァ、髪《かみ》の毛《け》と爪《つめ》だけだぜ。そのうちでも爪《つめ》の方《ほう》は、三日《みっか》見《み》なけりゃ目立《めだ》って伸《の》びる代物《しろもの》だ。――指《ゆび》の数《かず》で三百|本《ぽん》、糠袋《ぬかぶくろ》に入《い》れてざっと半分《はんぶん》よ。この混《ま》じりッけのねえおせんの爪《つめ》が、たった小判《こばん》一|枚《まい》だとなりゃ、若旦那《わかだんな》が猫《ねこ》のように飛《と》びつくなァ、磨《と》ぎたての鏡《かがみ》でおのが面《つら》を見《み》るより、はっきりしてるぜ」
 春重《はるしげ》のまわりには、いつか、ぐるりと裸《はだか》の人垣《ひとがき》が出来《でき》ていた。

    五

「千の字《じ》。おめえ、いい腕《うで》ンなったの」
「ふふふ」
「笑《わら》いごっちゃねえぜ。二十五|両《りょう》たァ、大束《おおたば》に儲《もう》けたじゃねえか」
「どこで、そいつを聞《き》いた」
「壁《かべ》に耳《みみ》ありよ。さっき、通《とお》りがかりに飛《と》び込《こ》んだ神田《かんだ》の湯屋《ゆや》で、傘屋《かさや》の金蔵《きんぞう》とかいう奴《やつ》が、てめえのことのように、自慢《じまん》らしく、みんなに話《はな》して聞《き》かせてたんだ」
「あいつ、もうそんな余計《よけい》なことを喋《しゃべ》りゃがったかい」
「喋《しゃべ》ったの、喋《しゃべ》らねえの段《だん》じゃねえや。紙屋《かみや》の若旦那《わかだんな》をまるめ込《こ》んで。――」
 下総武蔵《しもふさむさし》の国境《くにざかい》だという、両国橋《りょうごくばし》のまん中《なか》で、ぼんやり橋桁《はしげた》にもたれたまま、薄汚《うすぎたな》い婆《ばあ》さんが一|匹《ぴき》五|文《もん》で売《う》っている、放《はな》し亀《かめ》の首《くび》の動《うご》きを見詰《みつ》めていた千|吉《きち》は、通《とお》りがかりの細川《ほそかわ》の厩中間《うまやちゅうげん》竹《たけ》五|郎《ろう》に、ぽんと背中《せなか》をたたかれて、立《た》て続《つづ》けに聞《き》かされたのが、柳湯《やなぎゆ》で、金蔵《きんぞう》がしゃべったという、橘屋《たちばなや》の一|件《けん》であった。
 が、もう一|度《ど》竹《たけ》五|郎《ろう》が、鼻《はな》の頭《あたま》を引《ひ》ッこすって、ニヤリと笑《わら》ったその刹那《せつな》、向《むこ》うから来《き》かかった、八|丁堀《ちょうぼり》の与力《よりき》井上藤吉《いのうえとうきち》の用《よう》を聞《き》いている鬼《おに》七を認《みと》めた千|吉《きち》は、素速《すばや》く相手《あいて》を眼《め》で制《せい》した。
「叱《し》ッ。いけねえ。行《い》っちめえねえ」
「合点《がってん》だ」
 するりと抜《ぬ》けるようにして、竹《たけ》五|郎《ろう》が行《い》ってしまうと、はやくも鬼《おに》七は、千|吉《きち》の眼《め》の前《まえ》に迫《せま》っていた。
「千|吉《きち》。おめえ、こんなとこで、何《なに》をうろうろしてるんだ」
「へえ。きょうは親父《おやじ》の、墓詣《はかめえ》りにめえりやした。その帰《けえ》りがけでござんして。……」
「墓詣《はかまい》り」
「へえ」
「いつッから、そんな心《こころ》がけになったんだ」
「どうか御勘弁《ごかんべん》を」
「勘弁《かんべん》はいいが、――丁度《ちょうど》いい所《ところ》でおめえに遭《あ》った。ちっとばかり訊《き》きてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼《たの》むんだから、安心《あんしん》してついて来《き》ねえ」
 鬼《おに》七と呼ばれてはいるが、名前《なまえ》とはまったく違《ちが》った、すっきりとした男前《おとこまえ》の、結《ゆ》いたての髷《まげ》を川風《かわかぜ》に吹《ふ》かせた格好《かっこう》は、如何《いか》にも颯爽《さっそう》としていた。
 折柄《おりから》の上潮《あげしお》に、漫々《まんまん》たる秋《あき》の水《みず》をたたえた隅田川《すみだがわ》は、眼《め》のゆく限《かぎ》り、遠《とお》く筑波山《つくばやま》の麓《ふもと》まで続《つづ》くかと思《おも》われるまでに澄渡《すみわた》って、綾瀬《あやせ》から千|住《じゅ》を指《さ》して遡《さかのぼ》る真帆方帆《まほかたほ》が、黙々《もくもく》と千鳥《ちどり》のように川幅《かわはば》を縫《ぬ》っていた。
 その絵巻《えまき》を展《ひろ》げた川筋《かわすじ》の景色《けしき》を、見《み》るともなく横目《よこめ》で見《み》ながら、千|吉《きち》と鬼《おに》七は肩《かた》をならべて、静《しず》かに橋《はし》の上《うえ》を浅草御門《あさくさごもん》の方《ほう》へと歩《あゆ》みを運《はこ》んだ。
「千|吉《きち》、おめえ、おせんのところへは出《で》かけたろうの」
「どういたしやして。妹《いもうと》にゃ、三|年《ねん》この方《かた》、てんで会《あ》やァいたしません」
「ふふふ。つまらねえ隠《かく》し立《だ》ては止《や》めねえか。いまもいった通《とお》り、おいらァおめえを、洗《あら》い立《た》てるッてんじゃねえ。こっちの用《よう》で訊《き》きてえことがあるんだ。悪《わる》いようにゃしねえから、はっきり聞《き》かしてくんねえ」
「どんな御用《ごよう》で。……」
「おせんのとこへ、菊之丞《はまむらや》が毎晩《まいばん》通《かよ》うッて噂《うわさ》を聞《き》き込《こ》んだんだが、そいつをおめえは知《し》ってるだろうの」
 こう訊《き》きながら、鬼《おに》七の眼《め》は異様《いよう》に光《ひか》った。

    六

 鬼《おに》七の問《とい》は、まったく千|吉《きち》には思《おも》いがけないことであった。――子供《こども》の時分《じぶん》から好《す》きでこそあれ、嫌《きら》いではない菊之丞《きくのじょう》を、おせんがどれ程《ほど》思《おも》い詰《つ》めているかは、いわずと知《し》れているものの、今《いま》では江戸《えど》一|番《ばん》の女形《おやま》といわれている菊之丞《きくのじょう》が、自分《じぶん》からおせんの許《もと》へ、それも毎晩《まいばん》通《かよ》って来《き》ようなぞとは、どこから出《で》た噂《うわさ》であろう。岡焼半分《おかやきはんぶん》の悪刷《わるずり》にしても、あんまり話《はなし》が食《く》い違《ちが》い過《す》ぎると、千|吉《きち》は思《おも》わず鬼《おに》七の顔《かお》を見返《みかえ》した。
「何《な》んで、そんな不審《ふしん》そうな顔《かお》をするんだ」
「何《な》んでと仰《おっ》しゃいますが、あんまり親方《おやかた》のお聞《き》きなさることが、解《げ》せねえもんでござんすから。……」
「おいらの訊《き》くことが解《げ》せねえッて。――何《なに》が解《げ》せねえんだ」
「浜村屋《はまむらや》は、おせんのところへなんざ、命《いのち》を懸《か》けて頼《たの》んだって、通《かよ》っちゃくれませんや」
「おめえ、まだ隠《かく》してるな」
「どういたしやして、嘘《うそ》も隠《かく》しもありゃァしません。みんなほんまのことを申《もうし》上《あ》げて居《お》りやすんで。……」
「千|吉《きち》」
「へ」
「おめえ、二三|日前《にちまえ》に行《い》った時《とき》、おせんが誰《だれ》と話《はなし》をしてえたか、そいつをいって見《み》ねえ」
「話《はなし》でげすって」
「そうだ。おせん一人《ひとり》じゃなかったろう。たしか相手《あいて》がいたはずだ」
「お袋《ふくろ》が、隣座敷《となりざしき》にいた外《ほか》にゃ、これぞといって、人《ひと》らしい者《もの》ァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の衣装《いしょう》を着《き》た浜村屋《はまむらや》が、ちゃァんと一人《ひとり》いたはずだ。おめえはその眼《め》で見《み》たじゃねえか」
「ありゃァ親方《おやかた》。――」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊《き》いてるんだ」
「人形《にんぎょう》じゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。人間《にんげん》を人形《にんぎょう》と見違《みちが》える程《ほど》、鬼《おに》七ァまだ耄碌《も
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