《き》かずにいようよ」
 いたずらに、もてあそんでいた三|味線《みせん》の、いとがぽつんと切《き》れたように、おせんは身内《みうち》に積《つも》る寂《さび》しさを覚《おぼ》えて、思《おも》わず瞼《まぶた》が熱《あつ》くなった。
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ、お母《かあ》さんにもいうまいと、固《かた》く心《こころ》にきめていたのでござんすが、もう何事《なにごと》も申《もう》しましょう。どっと笑《わら》っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何《なに》かの訳《わけ》があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが、死《し》ぬほど好《す》きなんでござんす」
「えッ。菊之丞《きくのじょう》に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
 消えも入《い》りたいおせんの風情《ふぜい》は、庭《にわ》に咲《さ》く秋海棠《しゅうかいどう》が、なまめき落《お》ちる姿《すがた》をそのまま悩《なや》ましさに、面《おもて》を袂《たもと》におおい隠《かく》した。
 じッと、釘《くぎ》づけにされたように、春信《はるのぶ》の眼《め》は
前へ 次へ
全263ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング