《ぬかぶくろ》を、如何《いか》にも大切《たいせつ》そうに取上《とりあ》げると、おもむろに口紐《くちひも》を解《と》いて、十ばかりの爪《つめ》を掌《てのひら》にあけたが、そのまま湯《ゆ》のたぎる薬罐《やかん》の中《なか》へ、一つ一つ丁寧《ていねい》につまみ込《こ》んだ。
「ふふふ、こいつァいい匂《におい》だなァ。堪《たま》らねえ匂《におい》だ。――笠森《かさもり》の茶屋《ちゃや》で、おせんを見《み》てよだれを垂《た》らしての野呂間達《のろまたち》に、猪口《ちょこ》半分《はんぶん》でいいから、この湯《ゆ》を飲《の》ましてやりてえ気《き》がする。――」
 どこぞの秋刀魚《さんま》を狙《ねら》った泥棒猫《どろぼうねこ》が、あやまって庇《ひさし》から路地《ろじ》へ落《お》ちたのであろう。突然《とつぜん》雨戸《あまど》を倒《たお》したような大《おお》きな音《おと》が窓下《まどした》に聞《きこ》えたが、それでも薬罐《やかん》の中《なか》に埋《う》められた春重《はるしげ》の長《なが》い顔《かお》はただその眉《まゆ》が阿波人形《あわにんぎょう》のように、大《おお》きく動《うご》いただけで、決《けっ》して
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