頃《ちかごろ》はやりの紅色《べにいろ》の糠袋《ぬかぶくろ》だった。
「こいつァ重《しげ》さん、糠袋《ぬかぶくろ》じゃァねえか」
「まずの」
「一|朱《しゅ》はずんで、糠袋《ぬかぶくろ》を見《み》せてもらうどじ[#「どじ」に傍点]はあるめえぜ。――お前《めえ》いまなんてッた。おせんの雪《ゆき》のはだから切《き》り取《と》った、天下《てんか》に二つと無《ね》え代物《しろもの》を拝《おが》ませてやるからと。――」
「叱《し》ッ、極内《ごくない》だ」
「だってそんな糠袋《ぬかぶくろ》。……」
「袋《ふくろ》じゃねえよ。おいらの見《み》せるなこの中味《なかみ》だ。文句《もんく》があるンなら、拝《おが》んでからにしてくんな。――それこいつだ。触《さわ》った味《あじ》はどんなもんだの」
ぐっと伸《の》ばした松《まつ》五|郎《ろう》の手先《てさき》へ、春重《はるしげ》は仰々《ぎょうぎょう》しく糠袋《ぬかぶくろ》を突出《つきだ》したが、さて暫《しばら》くすると、再《ふたた》び取《と》っておのが額《ひたい》へ押《お》し当《あ》てた。
「開《あ》けて見《み》せねえ」
「拝《おが》みたけりゃ拝《おが》ませる。だが一つだって分《わ》けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
そういいながら、指先《ゆびさき》を器用《きよう》に動《うご》かした春重《はるしげ》は、糠袋《ぬかぶくろ》の口《くち》を解《と》くと、まるで金《きん》の粉《こな》でもあけるように、松《まつ》五|郎《ろう》の掌《てのひら》へ、三つばかりを、勿体《もったい》らしく盛《も》り上《あ》げた。
「こいつァ重《しげ》さん。――」
「爪《つめ》だ」
「ちぇッ」
「おっとあぶねえ。棄《す》てられて堪《たま》るものか。これだけ貯《た》めるにゃ、まる一|年《ねん》かかってるんだ」
松《まつ》五|郎《ろう》の掌《て》へ、おのが掌《て》をかぶせた春重《はるしげ》は、あわてて相手の掌《て》ぐるみ裏返《うらがえ》して、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように眼《め》の前《まえ》へ引《ひ》き着《つ》けた。
「湯屋《ゆや》で拾《ひろ》い集《あつ》めた爪《つめ》じゃァねえよ。蚤《のみ》や蚊《か》なんざもとよりのこと、腹《はら》の底《そこ》まで凍《こお》るような雪《ゆき》の晩《ばん》だって、おいらァじっと縁《えん》の下《した》へもぐり込《こ》んだまま辛抱《しんぼう》して来《き》た苦心《くしん》の宝《たから》だ。――この明《あか》りじゃはっきり見分《みわ》けがつくめえが、よく見《み》ねえ。お大名《だいみょう》のお姫様《ひめさま》の爪《つめ》だって、これ程《ほど》の艶《つや》はあるめえからの」
三日月《みかづき》なりに切《き》ってある、目《め》にいれたいくらいの小《ちい》さな爪《つめ》を、母指《おやゆび》と中指《なかゆび》の先《さき》で摘《つま》んだまま、ほのかな月光《げっこう》に透《すか》した春重《はるしげ》の面《おもて》には、得意《とくい》の色《いろ》が明々《ありあり》浮《うか》んで、はては傍《そば》に松《まつ》五|郎《ろう》のいることをさえも忘《わす》れた如《ごと》く、独《ひと》り頻《しき》りにうなずいていたが、ふと向《むこ》う臑《ずね》にたかった藪蚊《やぶか》のかゆさに、漸《ようや》くおのれに還《かえ》ったのであろう。突然《とつぜん》平手《ひらて》で臑《すね》をたたくと、くすぐったそうにふふふと笑《わら》った。
「重《しげ》さん、お前《まえ》まったく変《かわ》り者《もの》だの」
「なんでよ」
「考《かんが》えても見《み》ねえ。これが金《きん》の棒《ぼう》を削《けず》った粉《こな》とでもいうンなら、拾《ひろ》いがいもあろうけれど、高《たか》が女《おんな》の爪《つめ》だぜ。一|貫目《かんめ》拾《ひろ》ったところで、※[#「やまいだれ+票」、第3水準1−88−55]疽《ひょうそ》の薬《くすり》になるくれえが、関《せき》の山《やま》だろうじゃねえか。よく師匠《ししょう》も、春重《はるしげ》は変《かわ》り者《もの》だといってなすったが、まさかこれ程《ほど》たァ思《おも》わなかった」
「おいおい松《まっ》つぁん、はっきりしなよ。おいらが変《かわ》り者《もの》じゃァねえ。世間《せけん》の奴《やつ》らが変《かわ》ってるんだ。それが証拠《しょうこ》にゃ。願《がん》にかけておせんの茶屋《ちゃや》へ通《かよ》う客《きゃく》は山程《やまほど》あっても、爪《つめ》を切《き》るおせんのかたちを、一|度《ど》だって見《み》た男《おとこ》は、おそらく一人《ひとり》もなかろうじゃねえか。――そこから生《うま》れたこの爪《つめ》だ」
一つずつ数《かぞ》えたら、爪《つめ》の数《かず》は、百|個《こ》近《ちか》くもあるであろう。春重《はるし
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