しろ》くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立《た》つ瀬《せ》がありゃしねえや。どこの殿様《とのさま》がこさえたたとえか知《し》らねえが、長《なが》い物《もの》にゃ巻《ま》かれろなんて、あんまり向《むこ》うの都合《つごう》が良過《よす》ぎるぜ。橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》は、八百|蔵《ぞう》に生《い》き写《うつ》しだなんて、つまらねえお世辞《せじ》をいわれるもんだから、当人《とうにん》もすっかりいい気《き》ンなってるんだろうが、八百|蔵《ぞう》はおろか、八百|屋《や》の丁稚《でっち》にだって、あんな面《つら》があるもんか。飛《と》んだ料簡違《りょうけんちが》いのこんこんちきだ」
誰《だれ》にいうともない独言《ひとりごと》ながら、吉原《よしわら》への供《とも》まで見事《みごと》にはねられた、版下彫《はんしたぼり》の松《まつ》五|郎《ろう》は、止度《とめど》なく腹《はら》の底《そこ》が沸《に》えくり返《かえ》っているのであろう。やがて二三|丁《ちょう》も先《さき》へ行《い》ってしまった徳太郎《とくたろう》の背後《はいご》から、浴《あ》びせるように罵《ののし》っていた。
「おいおい松《まっ》つぁん」
「えッ」
「はッはッは。何《なに》をぶつぶついってるんだ。三日月様《みかづきさま》が笑《わら》ってるぜ」
「お前《まえ》さんは。――」
「おれだよ。春重《はるしげ》だよ」
うしろから忍《しの》ぶようにして付《つ》いて来《き》た男《おとこ》は、そういいながら徐《おもむ》ろに頬冠《ほおかぶ》りをとったが、それは春信《はるのぶ》の弟子《でし》の内《うち》でも、変《かわ》り者《もの》で通《とお》っている春重《はるしげ》だった。
「なァんだ、春重《はるしげ》さんかい。今時分《いまじぶん》、一人《ひとり》でどこへ行《い》きなすった」
「一人《ひとり》でどこへは、そっちより、こっちで訊《き》きたいくらいのもんだ。――お前《まえ》、橘屋《たちばなや》の徳《とく》さんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那《わかだんな》と一|緒《しょ》だったのを知《し》ってるんだ」
「ふふふ。平賀源内《ひらがげんない》の文句《もんく》じゃねえが、春重《はるしげ》の眼《め》は、一|里《り》先《さき》まで見透《みとお》しが利《き》くんだからの。お前《まえ》が徳《とく》さんとこで会《あ》って、どこへ行《い》ったかぐらいのこたァ、聞《き》かねえでも、ちゃんと判《わか》ってらァな」
「おやッ、行《い》った先《さき》が判《わか》ってるッて」
「その通《とお》りだ、当《あて》てやろうか」
「冗談《じょうだん》じゃねえ、いくらお前《まえ》さんの眼《め》が利《き》いたにしたって、こいつが判《わか》ってたまるもんか。断《ことわ》っとくが、当時《とうじ》十六|文《もん》の売女《やまねこ》なんざ、買《か》いに行《い》きゃァしねえよ」
「だが、あのざまは、あんまり威張《いば》れもしなかろう」
「あのざまたァ何《なに》よ」
「垣根《かきね》へもたれて、でんぐる返《かえ》しを打《う》ったざまだ」
「何《な》んだって」
「おせんの裸《はだか》を窺《のぞ》こうッてえのは、まず立派《りっぱ》な智恵《ちえ》だがの。おのれを忘《わす》れて乗出《のりだ》した挙句《あげく》、垣根《かきね》へ首《くび》を突《つ》っ込《こ》んだんじゃ、折角《せっかく》の趣向《しゅこう》も台《だい》なしだろうじゃねえか」
「そんなら重《しげ》さん、お前《まえ》さんはあの様子《ようす》を。――」
「気《き》の毒《どく》だが、根《ね》こそぎ見《み》ちまったんだ」
「どこで見《み》なすった」
「知《し》れたこった。庭《にわ》の中《なか》でよ」
「庭《にわ》の中《なか》」
「おいらァ泥棒猫《どろぼうねこ》のように、垣根《かきね》の外《そと》でうろうろしちゃァいねえからの。――それ見《み》な。鬼童丸《きどうまる》の故智《こち》にならって、牛《うし》の生皮《なまかわ》じゃねえが、この犬《いぬ》の皮《かわ》を被《かぶ》っての、秋草城《あきくさじょう》での籠城《ろうじょう》だ。おかげで画嚢《がのう》はこの通《とお》り。――」
懐中《ふところ》から取《と》り出《だ》した春重《はるしげ》の写生帳《しゃせいちょう》には、十|数枚《すうまい》のおせんの裸像《らぞう》が様々《さまざま》に描《か》かれていた。
六
松《まつ》五|郎《ろう》は、狐《きつね》につままれでもしたように、しばし三日月《みかづき》の光《ひかり》に浮《う》いて出《で》たおせんの裸像《らぞう》を、春重《はるしげ》の写生帳《しゃせいちょう》の中《なか》に凝視《ぎょうし》していたが、やがて我《われ》に還《かえ》って、あらた
前へ
次へ
全66ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング