独《ひと》り言《ごと》をいって顎《あご》を突出《つきだ》した松《まつ》五|郎《ろう》の顔《かお》は、道化方《どうけかた》の松島茂平次《まつしまもへいじ》をそのままであった。
八
行水《ぎょうずい》でもつかうように、股《もも》の付根《つけね》まで洗《あら》った松《まつ》五|郎《ろう》が、北向《きたむき》の裏《うら》二|階《かい》にそぼ降《ふ》る雨《あめ》の音《おと》を聞《き》きながら、徳太郎《とくたろう》と対座《たいざ》していたのは、それから間《ま》もない後《あと》だった。瓦《かわら》のおもてに、あとからあとから吸《す》い込《こ》まれて行《い》く秋雨《あきさめ》の、時《とき》おり、隣《となり》の家《いえ》から飛《と》んで来《き》た柳《やなぎ》の落葉《おちば》を、貼《は》り付《つ》けるように濡《ぬ》らして消《き》えるのが、何《なに》か近頃《ちかごろ》はやり始《はじ》めた飛絣《とびがすり》のように眼《め》に映《うつ》った。
銀煙管《ぎんぎせる》を握《にぎ》った徳太郎《とくたろう》の手《て》は、火鉢《ひばち》の枠《わく》に釘着《くぎづ》けにされたように、固《かた》くなって動《うご》かなかった。
「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人《いろ》があって、この節《せつ》じゃ毎日《まいにち》、そこへ通《かよ》い詰《づ》めだというんだね」
「まず、ざっとそんなことなんで。……」
「いったい、そのおせんの情人《いろ》というのは、何者《なにもの》なんだか、松《まっ》つぁん、はっきりあたしに教《おし》えておくれ」
「さァ、そいつァどうも。――」
「何《なに》をいってんだね。そこまで明《あ》かしておきながら、あとは幽霊《ゆうれい》の足《あし》にしちまうなんて、馬鹿《ばか》なことがあるもんかね。――お前《まえ》さんさっき、何《な》んといったい。若旦那《わかだんな》が鯱鉾立《しゃっちょこだち》して喜《よろこ》ぶ話《はなし》だと、見世《みせ》であんなに、大《おお》きなせりふ[#「せりふ」に傍点]でいったじゃないか。あたしゃ口惜《くや》しいけれど聞《き》いてるんだよ。どうせその気《き》で来《き》たんなら、あからさまに、一から十まで話《はなし》しておくれ。相手《あいて》の名《な》を聞《き》かないうちは、気の毒だが松《まっ》つぁん、ここは滅多《めった》に動《うご》かしゃァしないよ」
「ちょ、ちょいと待《ま》っとくんなさい、若旦那《わかだんな》。無理《むり》をおいいなすっちゃ困《こま》りやす」
「何《なに》が無理《むり》さ」
「何《なに》がと仰《おっ》しゃって、実《じつ》ァあっしゃァ、相手《あいて》の名前《なまえ》まじァ知《し》らねえんで。……」
「名前《なまえ》を知《し》らないッて」
「そうなんで。……」
「そんなら、名前《なまえ》はともかく、どんな男《おとこ》なんだか、それをいっとくれ。お武家《ぶけ》か、商人《あきんど》か、それとも職人《しょくにん》か。――」
「そいつがやっぱり判《わか》らねえんで。――」
「松つぁん」
徳太郎《とくたろう》の声《こえ》は甲走《かんばし》った。
「へえ」
「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂《すいきょう》で、お前《まえ》さんをここへ通《とお》したんじゃないんだよ。おせんが隠《かく》れて逢《あ》っているという、相手《あいて》の男《おとこ》を知《し》りたいばっかりに、見世《みせ》の者《もの》の手前《てまえ》も構《かま》わず、わざわざ二|階《かい》へあげたんじゃないか。名《な》を知《し》らないのはまだしものこと、お武家《ぶけ》か商人《あきんど》か、職人《しょくにん》か、それさえ訳《わけ》がわからないなんて、馬鹿《ばか》にするのも大概《たいがい》におし。――もうそんな人《ひと》にゃ用《よう》はないから、とっとと消《き》えて失《う》せとくれよ」
「帰《けえ》れと仰《おっ》しゃるんなら、帰《けえ》りもしましょうが、このまま帰《けえ》っても、ようござんすかね」
「なんだって」
「若旦那《わかだんな》。あっしゃァなる程《ほど》、おせんの相手《あいて》が、どこの誰《だれ》だか知《し》っちゃいませんが、そんなこたァ知《し》ろうと思《おも》や、半日《はんにち》とかからねえでも、ちゃァんと突《つ》きとめてめえりやす。それよりも若旦那《わかだんな》。もっとお前《まえ》さんにゃ、大事《だいじ》なことがありゃァしませんかい」
「そりゃ何《な》んだい」
「まァようがす。とっとと消《き》えて失《う》せろッてんなら、あんまり畳《たたみ》のあったまらねえうちに、いい加減《かげん》で引揚《ひきあ》げやしょう。――どうもお邪間《じゃま》いたしやした」
「お待《ま》ち」
「何《なん》か御用《ごよう》で」
「あたしの大事《だいじ》なことだという、それを聞《き
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