合羽《かっぱ》をむしり取《と》っていた。
「へい、これは若旦那《わかだんな》、お早《はや》いお帰《かえ》りでございます」
 番頭《ばんとう》の幸兵衛《こうべえ》は、帳付《ちょうづけ》の筆《ふで》を投《な》げ出《だ》して、あわてて暖簾口《のれんぐち》へ顔《かお》を出《だ》したが、ひと目《め》徳太郎《とくたろう》の姿《すがた》を見《み》るとてっきり、途中《とちゅう》で喧嘩《けんか》でもして来《き》たものと、思《おも》い込《こ》んでしまったのであろう。頭《あたま》のてッ辺《ぺん》から足《あし》の爪先《つまさき》まで、見上《みあ》げ見《み》おろしながら、言葉《ことば》を吃《ども》らせた。
「ど、どうなすったのでございます」
「番頭《ばんとう》さん、市松《いちまつ》に直《す》ぐ暇《ひま》をだしとくれ」
「市松《いちまつ》が、な、なにか、粗相《そそう》をいたしましたか」
「何《な》んでもいいから、あたしのいった通《とお》りにしておくれ。あたしゃきょうくらい、恥《はじ》をかいたこたァありゃしない。もう口惜《くや》しくッて、口惜《くや》しくッて。……」
「そ、それはまたどんなことでございます。小僧《こぞう》の粗相《そそう》は番頭《ばんとう》の粗相《そそう》、手前《てまえ》から、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁《ごかんべん》願《ねが》えるものでございましたら、この幸兵衛《こうべえ》に御免《ごめん》じ下《くだ》さいまして。……」
「余計《よけい》なことは、いわないでおくれ」
「へい。……左様《さよう》でございましょうが、お見世《みせ》の支配《しはい》は、大旦那様《おおだんなさま》から、一|切《さい》お預《あず》かりいたして居《お》ります幸兵衛《こうべえ》、あとで大旦那様《おおだんなさま》のお訊《たず》ねがございました時《とき》に、知《し》らぬ存《ぞん》ぜぬでは通《とお》りませぬ。どうぞその訳《わけ》を、仰《おっ》しゃって下《くだ》さいまし」
「訳《わけ》なんぞ、聞《き》くことはないじゃないか。何《な》んでもあたしのいった通《とお》り、暇《ひま》さえ出《だ》してくれりゃいいんだよ」
 駄々《だだ》ッ子《こ》がおもちゃ箱《ばこ》をぶちまけたように、手《て》のつけられないすね方《かた》をしている徳太郎《とくたろう》の耳《みみ》へ、いきなり、見世先《みせさき》から聞《きこ》え来《き》たのは、松《まつ》五|郎《ろう》の笑《わら》い声《ごえ》だった。
「はッはッは、若旦那《わかだんな》、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄《みみよ》りの話《はなし》を聞《き》いてめえりやした。いい智恵《ちえ》をお貸《か》し申《もう》しやすから、小僧《こぞう》さんのしくじりなんざさっぱり水《みず》に流《なが》しておやんなさいまし」
 中番頭《ちゅうばんとう》から小僧達《こぞうたち》まで、一|同《どう》の顔《かお》が一|齊《せい》に松《まつ》五|郎《ろう》の方《ほう》へ向《む》き直《なお》った。が、徳太郎《とくたろう》は暖簾口《のれんぐち》から見世《みせ》の方《ほう》を睨《にら》みつけたまま、返事《へんじ》もしなかった。
「もし、若旦那《わかだんな》。悪《わる》いこたァ申《もう》しやせん。お前《まえ》さんが、鯱鉾立《しゃっちょこだち》をしてお喜《よろこ》びなさる、うれしい話《はなし》を聞《き》いてめえりやしたんで。――ここで話《はな》しちゃならねえと仰《おっ》しゃるんなら、そちらへ行《い》ってお話《はな》しいたしやす。着物《きもの》もぬれちゃァ居《お》りやせん。どうでげす。それともこのまま帰《かえ》りやしょうか」
 被《かぶ》っていた桐油《とうゆ》を、見世《みせ》の隅《すみ》へかなぐり棄《す》てて、ふところから取出《とりだ》した鉈豆煙管《なたまめぎせる》[#「鉈豆煙管」は底本では「鉈煙管」]へ、叺《かます》の粉煙草《こなたばこ》を器用《きよう》に詰《つ》めた松《まつ》五|郎《ろう》は、にゅッと煙草盆《たばこぼん》へ手《て》を伸《の》ばしながら、ニヤリと笑《わら》って暖簾口《のれんぐち》を見詰《みつ》めた。
「松《まつ》つぁん」
「へえ」
「若旦那《わかだんな》が、こっちへとおいなさる」
「そいつァどうも。――」
「おっと待《ま》った。その足《あし》で揚《あ》がられちゃかなわない。辰《たつ》どん、裏《うら》の盥《たらい》へ水《みず》を汲《く》みな」
 番頭《ばんとう》の幸兵衛《こうべえ》は、壁《かべ》の荒塗《あらぬ》りのように汚泥《はね》の揚《あ》がっている松《まつ》五|郎《ろう》の脛《すね》を、渋《しぶ》い顔《かお》をしてじっと見守《みまも》った。
「ふふふ、松《まつ》五|郎《ろう》は、見《み》かけに寄《よ》らねえ忠義者《ちゅうぎもの》でげすぜ」
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