《は》てて、一|寸先《すんさき》も見《み》えなかったが、それでも溝板《どぶいた》の上《うえ》を駆《か》けだして、角《かど》の煙草屋《たばこや》の前《まえ》まで来《く》ると、どうやらほっと安心《あんしん》の胸《むね》を撫《な》でおろした。
「だが、いったいあいつは、何《な》んだってあんな馬鹿気《ばかげ》たことが好《す》きなんだろう。爪《つめ》を煮《に》たり、髪《かみ》の毛《け》の中《なか》へ顔《かお》を埋《う》めたり、気狂《きちがい》じみた真似《まね》をしちゃァ、いい気持《きもち》になってるようだが、虫《むし》のせえだとすると、ちと念《ねん》がいり過《す》ぎるしの。どうも料簡方《りょうけんがた》がわからねえ」
ぶつぶつひとり呟《つぶや》きながら、小首《こくび》を傾《かし》げて歩《ある》いて来《き》た松《まつ》五|郎《ろう》は、いきなりぽんと一つ肩《かた》をたたかれて、はッ[#「はッ」に傍点]とした。
「どうした、兄《あに》ィ」
「おおこりゃ松住町《まつずみちょう》」
「松住町《まつずみちょう》じゃねえぜ。朝《あさ》っぱらから、素人芝居《しろうとしばい》の稽古《けいこ》でもなかろう。いい若《わけ》え者《もの》がひとり言《ごと》をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
坊主頭《ぼうずあたま》へ四つにたたんだ手拭《てぬぐい》を載《の》せて、朝《あさ》の陽差《ひざし》を避《さ》けながら、高々《たかだか》と尻《しり》を絡《から》げたいでたちの相手《あいて》は、同《おな》じ春信《はるのぶ》の摺師《すりし》をしている八五|郎《ろう》だった。
「みっともねえかも知《し》れねえが、あれ程《ほど》たァ思《おも》わなかったからよ」
「何《なに》がよ」
「春重《はるしげ》だ」
「春重《はるしげ》がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本《にほん》一の変《かわ》り者《もの》だぜ」
「春重《はるしげ》の変《かわ》り者《もの》だってこたァ、いつも師匠《ししょう》がいってるじゃねえか。今《いま》さら変《かわ》り者《もの》ぐれえに、驚《おどろ》くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの変《かわ》り者《もの》なら、おいらもこうまじゃ驚《おどろ》かねえが、一|晩中《ばんじゅう》寝《ね》ずに爪《つめ》を煮《に》たり、束《たば》にしてある女《おんな》の髪《かみ》の毛
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