―」
「それに違《ちげ》えねえやな。でえいち、外《ほか》にあんな匂《におい》をさせる家業《かぎょう》が、ある筈《はず》はなかろうじゃねえか。雪駄《せった》の皮《かわ》を、鍋《なべ》で煮《に》るんだ。軟《やわ》らかにして、針《はり》の通《とお》りがよくなるようによ」
「そうかしら」
「しら[#「しら」に傍点]も黒《くろ》もありァしねえ。それが為《ため》に、忙《いそが》しい時《とき》にゃ、夜《よ》ッぴて鍋《なべ》をかけッ放《はな》しにしとくから、こっちこそいい面《つら》の皮《かわ》なんだ。――この壁《かべ》ンところ鼻《はな》を当《あ》てて臭《か》いで見《み》ねえ。火事場《かじば》で雪駄《せった》の焼《や》け残《のこ》りを踏《ふ》んだ時《とき》と、まるッきり変《かわ》りがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持《きもち》がするんだから、そんなとこへ寄《よ》るなんざ、真《ま》ッ平《ぴら》よ。――ねえお前《まえ》さん。後生《ごしょう》だから、かけ合《あ》って来《き》とくれよ」
「おめえ行《い》って来《き》ねえ」
「女《おんな》じゃ駄目《だめ》だというのにさ」
「男《おとこ》が行《い》っちゃァ、穏《おだ》やかでねえから、おめえ行《い》きねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこの家《うち》だって、みんな亭主《ていしゅ》の役《やく》じゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんて気《き》の弱《よわ》い人《ひと》なんだろう」
「臭《くせ》えからいやなんだ」
「お前《まえ》さんより、女《おんな》だもの。あたしの方《ほう》が、どんなにいやだか知《し》れやしない。――昔《むかし》ッから、公事《くじ》かけ合《あい》は、みんな男《おとこ》のつとめなんだよ」
「ふん。昔《むかし》も今《いま》もあるもんじゃねえ。隣近所《となりきんじょ》のこたァ、女房《にょうぼう》がするに極《きま》ッてらァな。行《い》って、こっぴどくやっ付《つ》けて来《き》ねえッてことよ」
壁《かべ》一|重《え》隣《となり》の左官夫婦《さかんふうふ》が、朝飯《あさめし》の膳《ぜん》をはさんで、聞《きこ》えよがしのいやがらせも、春重《はるしげ》の耳《みみ》へは、秋《あき》の蝿《はえ》の羽《は》ばたき程《ほど》にも這入《はい》らなかったのであろう。行燈《あんどん》の下《した》の、薬罐《やかん》の上《うえ》に負《お
前へ
次へ
全132ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング