げ》は、もう一|度《ど》糠袋《ぬかぶくろ》を握《にぎ》りしめて、薄気味悪《うすきみわる》くにやり[#「にやり」に傍点]と笑《わら》った。

  朝《あさ》


    一

 ちち、ちち、ちちち。
 行燈《あんどん》はともしたままになっていたが、外《そと》は既《すで》に明《あ》けそめたのであろう。今《いま》まで流《なが》し元《もと》で頻《しき》りに鳴《な》いていた虫《むし》の音《ね》が、絶《た》えがちに細《ほそ》ったのは、雨戸《あまど》から差《さ》す陽《ひ》の光《ひか》りに、おのずと怯《おび》えてしまったに相違《そうい》ない。
 が、虫《むし》の音《ね》の細《ほそ》ったことも、外《そと》が白々《しらじら》と明《あ》けそめて、路地《ろじ》の溝板《どぶいた》を踏《ふ》む人《ひと》の足音《あしおと》が聞《きこ》えはじめたことも、何《なに》もかも知《し》らずに、ただ独《ひと》り、破《やぶ》れ畳《だたみ》の上《うえ》に据《す》えた寺子屋机《てらこやつくえ》の前《まえ》に頑張《がんば》ったまま、手許《てもと》の火鉢《ひばち》に載《の》せた薬罐《やかん》からたぎる湯気《ゆげ》を、千|切《ぎ》れた蟋蟀《こおろぎ》の片脚《かたあし》のように、頬《ほほ》を引《ひ》ッつらせながら、夢中《むちゅう》で吸《す》い続《つづ》けていたのは春重《はるしげ》であった。
 七|軒《けん》長屋《ながや》のまん中《なか》は縁起《えんぎ》がよくないという、人《ひと》のいやがるそんまん中《なか》へ、所帯道具《しょたいどうぐ》といえば、土竈《どがま》と七|輪《りん》と、箸《はし》と茶碗《ちゃわん》に鍋《なべ》が一つ、膳《ぜん》は師匠《ししょう》の春信《はるのぶ》から、縁《ふち》の欠《か》けた根《ね》ごろの猫脚《ねこあし》をもらったのが、せめて道具《どうぐ》らしい顔《かお》をしているくらいが関《せき》の山《やま》。いわばすッてんてんの着《き》のみ着《き》のままで蛆《うじ》が湧《わ》くのも面白《おもしろ》かろうと、男《おとこ》やもめの垢《あか》だらけの体《からだ》を運《はこ》び込《こ》んだのが、去年《きょねん》の暮《くれ》も押《お》し詰《つま》って、引摺《ひきずり》り餅《もち》が向《むこ》ッ鉢巻《ぱちまき》で練《ね》り歩《ある》いていた、廿五|日《にち》の夜《よる》の八つ時《どき》だった。
 ざっと二|年《ねん》。
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