|匹《ぴき》の虻《あぶ》を、猫《ねこ》が頻《しき》りに尾《お》を振《ふ》ってじゃれる影《かげ》が、障子《しょうじ》にくっきり映《うつ》っていた。
 その虻《あぶ》の羽音《はおと》を、聞《き》くともなしに聞《き》きながら、菊之丞《きくのじょう》の枕頭《ちんとう》に座《ざ》して、じっと寝顔《ねがお》に見入《みい》っていたのは、お七の着付《きつけ》もあでやかなおせんだった。
 紫《むらさき》の香煙《こうえん》が、ひともとすなおに立昇《たちのぼ》って、南向《みなみむ》きの座敷《ざしき》は、硝子張《ギヤマンばり》の中《なか》のように暖《あたた》かい。
 七|年目《ねんめ》で会《あ》った、たった二人《ふたり》の世界《せかい》。殆《ほと》んど一|夜《や》のうちに生気《せいき》を失《うしな》ってしまった菊之丞《きくのじょう》の、なかば開《ひら》かれた眼《め》からは、糸《いと》のような涙《なみだ》が一|筋《すじ》頬《ほほ》を伝《つた》わって、枕《まくら》を濡《ぬ》らしていた。
「おせんちゃん」
 菊之丞《きくのじょう》の声《こえ》は、わずかに聞《き》かれるくらい低《ひく》かった。
「あい」
「よく来《き》てくれた」
「太夫《たゆう》さん」
「太夫《たゆう》さんなぞと呼《よ》ばずに、やっぱり昔《むかし》の通《とおり》り、吉《きち》ちゃんと呼《よ》んでおくれな」
「そんなら、吉《きち》ちゃん。――」
「はい」
「あたしゃ、会《あ》いとうござんした」
「あたしも会《あ》いたかった。――こういったら、お前《まえ》さんはさだめし、心《こころ》にもないことをいうと、お想《おも》いだろうが、決して嘘《うそ》でもなけりゃ、お世辞《せじ》でもない。――知《し》っての通《とお》り、あたしゃどうやら人気《にんき》も出《で》て、世間様《せけんさま》からなんのかのと、いわれているけれど、心《こころ》はやっぱり十|年前《ねんまえ》もおなじこと。義理《ぎり》でもらった女房《にょうぼう》より、浮気《うわき》でかこった女《おんな》より、心《しん》から思《おも》うのはお前《まえ》の身《み》の上《うえ》。暑《あつ》いにつけ、寒《さむ》いにつけ、切《せつ》ない思《おも》いは、いつも谷中《やなか》の空《そら》に通《かよ》ってはいたが、今《いま》ではお前《まえ》も人気娘《にんきむすめ》、うっかりあたしが訪《たず》ねたら、あらぬ
前へ 次へ
全132ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング