《つつみ》を抱《かか》えたおこのは、それでも何《なに》やら心《こころ》が乱《みだ》れたのであろう。上気《じょうき》した顔《かお》をふせたまま、敷居際《しきいぎわ》に頭《あたま》を下《さ》げた。
「こないに遅《おそ》う、無躾《ぶしつけ》に伺《うかが》いまして。……」
「どんな御用《ごよう》か、遠慮《えんりょ》なく、ずっとお通《とお》りなさるがいい」
「いいえもう、ここで結構《けっこう》でおます」
行燈《あんどん》の灯《ひ》が長《なが》く影《かげ》をひいた、その鼠色《ねずみいろ》に包《つつ》まれたまま、石《いし》のように硬《かた》くなったおこのの髪《かみ》が二|筋《すじ》三|筋《すじ》、夜風《よかぜ》に怪《あや》しくふるえて、心《こころ》もち青《あお》みを帯《お》びた頬《ほほ》のあたりに、ほのかに汗《あせ》がにじんでいた。
「そうしてお上《かみ》さんは、こんな遅《おそ》く、何《な》んの用《よう》でおいでなすった」
「拝借《はいしゃく》の、おせん様《さま》の帯《おび》を、お返《かえ》し申《もう》しに。――」
「なに、おせんの帯《おび》を。――」
「はい」
「それはまた何《な》んでの」
春信《はるのぶ》は、意外《いがい》なおこのの言葉《ことば》は、思《おも》わず眼《め》を瞠《みは》った。
「御大切《おたいせつ》なお品《しな》ゆえ、粗相《そそう》があってはならんよって、速《はよ》うお返《かえ》し申《もう》すが上分別《じょうふんべつ》と、思《おも》い立《た》って参《さん》じました」
「では太夫《たゆう》はこの帯《おび》を、芝居《しばい》にゃ使《つか》わないつもりかの」
「はい。折角《せっかく》ながら。……」
おこのは、そのまま固《かた》く唇《くちびる》を噛《か》んだ。
四
「ふふふふ、お上《かみ》さん」
じっとおこのの顔《かお》を見詰《みつ》めていた春信《はるのぶ》は、苦笑《くしょう》に唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「はい」
「お前《まえ》さんもう一|度《ど》、思《おもい》い直《なお》して見《み》なさる気《き》はないのかい」
「おもい直《なお》せといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちの胸《むね》に、訊《き》いて見《み》たらば判《わか》ンなさろう。――その帯《おび》は、おせんから頼《たの》まれて、この春信《はるのぶ》が
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