ようから、その手拭《てぬぐい》をこっちへお出《だ》し」
「いいえ、汗《あせ》さえ流《なが》せばようござんすから……」
「何《なに》をいうのさ。いいからこっちへお向《む》きというのに」
 二十二で伜《せがれ》の千|吉《きち》を生《う》み、二十六でおせんを生《う》んだその翌年《よくねん》、蔵前《くらまえ》の質見世《しちみせ》伊勢新《いせしん》の番頭《ばんとう》を勤《つと》めていた亭主《ていしゅ》の仲吉《なかきち》が、急病《きゅうびょう》で亡《な》くなった、幸《こう》から不幸《ふこう》への逆落《さかおと》しに、細々《ほそぼそ》ながら人《ひと》の縫物《ぬいもの》などをさせてもらって、その日《ひ》その日《ひ》を過《す》ごして早《はや》くも十八|年《ねん》。十八に家出《いえで》をしたまま、いまだに行方《ゆくえ》も知《し》れない伜《せがれ》千|吉《きち》の不甲斐《ふがい》なさは、思《おも》いだす度毎《たびごと》にお岸《きし》が涙《なみだ》の種《たね》ではあったが、踏《ふ》まれた草《くさ》にも花咲《はなさ》くたとえの文字通《もじどお》り、去年《きょねん》の梅見時分《うめみじぶん》から伊勢新《いせしん》の隠居《いんきょ》の骨折《ほねお》りで、出《だ》させてもらった笠森稲荷《かさもりいなり》の水茶屋《みずぢゃや》が忽《たちま》ち江戸中《えどじゅう》の評判《ひょうばん》となっては、凶《きょう》が大吉《だいきち》に返《かえ》った有難《ありがた》さを、涙《なみだ》と共《とも》に喜《よろこ》ぶより外《ほか》になく、それにつけても持《も》つべきは娘《むすめ》だと、近頃《ちかごろ》、お岸《きし》が掌《て》を合《あわ》せるのは、笠森様《かさもりさま》ではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことを訊《き》くようだが、おまえ毎日《まいにち》見世《みせ》へ出《で》ていて、まだこれぞと思《おも》う、好《す》いたお方《かた》は出来《でき》ないのかえ」
「まあ何《なに》かと思《おも》えばお母《かあ》さんが。――あたしゃそんな人《ひと》なんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。お怒《おこ》りかえ」
「怒《おこ》りゃしませんけれど、あたしゃ男《おとこ》は嫌《きら》いでござんす」
「なに、男《おとこ》は嫌《きら》いとえ」
「あい」
「ほんにまァ。――」
 この春《はる》まで、まだまだ子供《こど
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