姉に向って、幼い時の思い出を色々と話しかける。私はひどく愛情に飢えているのだ。それで私に愛情を持っていると感ぜられる唯ひとりの姉に、甘えるようにお喋りする。三十七歳の私が、子供の時、「ちょれから、ちょれから」といつも三つ上の姉をからかったような喋り方。
それでも姉には、多くの子供たちや、夫があり、私だけに愛情を注いで貰えぬ淋しさがある。その思いが、二十年間、仲むつまじく連れそってきた姉の夫、義兄の帰宅してきた時から一層、ひどくなる。義兄は、財界を動かす「ニューフェース」の中に数えられる、ある経済団体の所長代理、すでに五十歳。その彼に私はインフェリオリティ・コンプレックスを感じる。その淋しさをまぎらせるため、私は姉の子供たちと将棋なぞやって気を紛《まぎ》らわせる。
その間にも、私は桂子に手ひどく騙《だま》されたのを思いだす。彼女の浮気をしている時の姿態が悩ましく、瞼《まぶた》にちらついて、私は大抵、将棋に負けてしまう。もっとも私は、将棋があまり好きでないのだ。
そうしたある朝、九時頃でもあろうか、アドルムを飲み、ぐっすり熟睡していた私を、姉がけたたましく揺り起す。枕元にはどうも見覚えのある老人が坐っている。いつも桂子の家に手伝いに来ているオバさんの年老《としと》った夫。私は、桂子に万一のことでもあったのかと、ギョッとして一度に目が覚めてしまう。幸い桂子の身体に異状はない、ただ泥棒に見舞われたという話なので私は安心する。私はこと財産に関しては、昔から本来無一物、何レノ処ニカ塵挨《じんあい》ヲ惹《ひ》カン、といった暢気《のんき》な気持なのだ。
それで落着いて、昨夜、二度も、近くの長兄の家を訪れて引返し、三度目、深更二時頃、警官の手を借り、長兄の家にたどりつき、その夜、長兄のもとに一泊し、こちらに回ったという、オジさんの話をきく。
オジさんの話では、私に、二度目に家をとび出された桂子は、その日、アドルムを買ってきて熟睡し、翌日の昼頃まで死んだように眠った後、フラフラ表に出、見知らぬ若い男と帰ってきた。そしてふたりで夕食を食べた後、桂子は勤めに出ると言い、その男とふたりで外に出た。間もなく、若い男がひとりだけで帰ってきて、友人と約束の時まで休ませて欲しいと、家に上りこんだ。
人のいいオバさんは、その男を信用し、男に勧められるまま、近くの自宅に御飯を食べにゆく。そして約一時間後、帰ってきて愕然とした。箪笥《たんす》の中から、桂子と私と、私の友人から預った衣類数十点、それに現金五千円ばかり盗まれている。時間は丁度、薄暗闇迫る頃、風呂敷でしょい、私のオリンピック記念のトランクを右手にぶらさげ、うまうま持出したものらしい。私は衣類に執着があまりないしロクなものもなかったから、最大の被害者はアストラカンのオーバーまで盗まれた桂子だし、次に気の毒なのは、事情があって家を追われ、荷物を預けていった私の不幸な友人だった。そして、その後、桂子は帰宅せず、翌日の午後、帰ってきて大騒ぎになり、私を迎えるため、オジさんを郊外の長兄の家まで走らせたものという。
嫉妬深《しっとぶか》い私には、その桂子外泊という一事が、前の三日外泊と相まって、いちばん胸にこたえた。私は二度、桂子の家を出たいちばんの理由を、そのことにしているのだから、もし桂子が正《まさ》しく私に愛情があれば、そうした事件を機会にして、私のほうに来てくれればよいと思った。勿論、彼女の身体に被害でもあれば、私は気違いみたいになって飛んでいったろう。けれども、衣類を取られただけということ、私も締切間近な仕事に追われているということが、(ゆっくりお話したいから、こちらに来てください)という手紙を書かせ、私はそれをオジさんに渡した。
ボツボツ家政婦に出だした妻がまだ一張羅の晴着を質屋から出してないのを私は知っている。それでも私には、桂子の盗難のほうが気になり、ゆっくり相談したい気持になるのだった。なんという不道徳漢と誰に罵《のの》しられても仕方がない。その日、姉の家に移転してから、初めて、二つの雑誌社から、小説註文の編集者がみえた。私は旧臘《きゅうろう》からのゴタゴタで、満足な仕事もせず、世の中から忘れられたと僻《ひが》んでいたときだけに、その客たちが嬉しく、桂子が二時間経っても、まだ来ない気持の苛立《いらだ》ちも紛らすことができた。
黄昏《たそがれ》、例によってアドルムと人が恋しくなる頃、私は台所の姉に薬を貰いにゆき、その時、新宿の桂子を見舞にゆきたいと言いだした。姉はそれを止めはしなかった。しかし、私がああいう手紙を書いて、桂子がやってこないのには他に理由もあろう。更に、翌日、私の老母が見舞にゆくことになっているから、お見舞はそれからでもいいだろうと言った。私も気づけば、すでに桂子は勤めに出た後の時間である。それで翌日、老母の行ってくれた後のことにしようと思い、いつものようにアドルム五錠を貰ってから、子供たちと、離れの十畳にゆき、将棋をやっていた。
夜の九時頃になり、そのうち玄関を激しくノックする音。「誰」ときけば、「あたし」という独特のしわがれた声が桂子である。私は一面、嬉しく、一面、気まりが悪く、大急ぎで子供たちを退散させてから、優しく桂子を部屋に迎え入れた。先日までピチピチ肥って、とても元気そうにみえた桂子が、いまはアドルムの酔いもあるらしく、ひどくやつれてみえる。女性にとって、衣類はそれほど顔をやつれさすほど貴重なものらしい。ほどよく酔っている桂子はしきりに、(女にとり第一に大切なものは衣裳、第二が生命、第三が恋人よ)という。
私はまた彼女がそのように、いっさいをハッキリいう時の、お転婆の童女のような顔が好きなのだ。いつの間にか戸外には、いまの時代を思わせるような激しい風が、ピュウピュウ吹きはじめ、私は幾らかでも酔っている彼女を、そんな夜、ひとりで新宿まで帰すことが不安になった。
どちらかいえば、妻子のある私と関係しただけでも、桂子に好意の持てぬような姉までが、その夜は、彼女に同情し、彼女の災難をともに心配し、風が強いから、泊っていったらどうか、これからも昼間、時々、遊びに来るように勧めていた。そう勧められると駄々っ子の桂子は、どうしても帰ると言い張る。私はそんな風に酔った桂子が、深夜おそく、新宿のマーケット街を放浪する光景を想像すると慄然《りつぜん》となる。酔うとバカに気が強くなり、警官でも与太者でも見境なく食ってかかる彼女。その揚句、交番に留置されるならまだしも、与太者に撲《なぐ》られた上、身体を自由に弄《もてあそ》ばれたりしたら大変だ。
また彼女の過去に、そのような事件があるのを私は度々、目撃しているし、仄聞《そくぶん》したこともある。それ故、私は姉よりも強固に、彼女をひきとめ、その夜、一緒に寝た。けれども、私は姉にいわれ、医者に見て貰い、その日までペニシリンの注射を続けていたので、その夜は、彼女の身体に触る元気はなかった。翌朝、妙に悄然《しょうぜん》とみえる彼女を送って、近くの駅までゆく。
途中の喫茶店にチョコレートを飲みに入ったが、そこで彼女にせがみ、アドルムを三錠、十錠のみはじめると、私は丁度、麻薬中毒患者が薬にありついたような、ただ本能の奴隷となる。私は再び、もはや、彼女と別れたくない気持。彼女が前に三度、外泊したというのは一度の誤り、それも銀座から帰る途中、リリーとふたりで輪タクの運転手と喧嘩《けんか》し、K町の交番に保護検束を受けただけ、分厚い札たばというのも、十日毎位の店の収入を、纏《まと》めてみただけという、彼女の話をなんでもかんでも信じたい気持になる。
また泥棒に入られる前夜、外泊したのは事実だが、それは国際文化社という歴《れっき》とした雑誌社の編集者で、男がふたりで、女は桂子ひとり。新橋の近くの待合で一夜を飲み明かし、指一本も触れさせなかった、という桂子の話まであっさり信じてしまう。その泥棒にしても、桂子がフラフラと出て、連れてきたのではなく、マーケットで一度、逢っただけの男が、彼女の家を探りあて、麻雀《マージャン》で夜明しした後でつかれているから休ませてくれ、とノコノコ上りこんできたのだという、桂子の話も信じる。そして、桂子に頼んで、アドルムを更に十錠。そのために心気ますます朦朧《もうろう》としてきて、桂子が酒を飲みましょうか、というのに、締切間近の仕事も忘れ、ふたりで近くの中華料理店に上りこむ。
そして熱い酒を飲みだすと、私はなにがなんだか分らなくなる、いっさいの恥も外聞も忘れ、まるで自制心がなくなる。散々飲んだり食べたりした後、その店に払う勘定がないと、店の子供を使いにやり姉を呼ばせる。姉はいちばん下の五つの女の子を連れ、やってきたが、私の醜態をみると泣いてしまったようだ。そして意見がましいことをいうのに、虎狼《ころう》のような心になっている私は、床の間の置物を掴《つか》んで、姉に投げつけようとした。
どうして姉の離れの十畳に帰ったかよく分らぬ。ただ煙草を買いにゆくと出た桂子のなかなか帰ってこないのが気になる。大学の試験を明日に控えている姉の長男を何度も、表に走らせ、桂子をみにやったが、どこにもいないという。それで私は大暴れ、妻の唯一の財産の箪笥《たんす》をひっくり返し、背広を着、オーバーを纏い、外出する仕度までしたが、まだ桂子が帰ってこないので、その場に大の字になり寝てしまう。そして寝小便までしてしまった塩梅《あんばい》。
ふと気がつけば、私は離れの十畳に寝ており、姉がかいまきをかけてくれている。桂子のハイヒールもハンドバッグも残っているが、すでに彼女が出て三時間にもなる。私は諦めて寝てしまう積り。姉の手からアドルム十錠、奪いとるようにして取り、それを飲んで、うつらうつら眠くなった頃。
突然、酔っ払った桂子が夜叉《やしゃ》のような形相で帰ってきた。私の顔をみるのもイヤだと言い、髪の毛をひきむしり、顔を打つ。そして新宿に帰るというが、もう終電車もなく、そんな桂子を表に出す気持になれない。それで姉の困りきった顔をみながらも、桂子をもう一晩、その離れに泊めようとする。しかし酔うと、酷薄無慙《こくはくむざん》な気持になる桂子は、そんな私の心づかいなど鼻で笑う。そして、近くに昔、知合いの立派な家があるから、そこに行きたいと言い張ってきかない。
私はそんなに言うのなら、そこにやるのもよかろうと思った。だが、ひとりでは不安なので、また姉の長男に警官を呼んで来て貰い、桂子を警官に送らせようとする。しかし警官の顔をみる頃から桂子は温和《おとな》しくなった。一通り、私の悪口を警官に喋《しゃべ》ってから、その部屋に寝ることを承知する。
朝、酔って乱暴したいつもの朝のように、桂子は、私の胸に泣き崩れてきた。肉体をかすかに揺動かす、彼女のテクニック。私は醜い哀れさに堪《たま》らなくなり、彼女に肉体の欲望があるかどうかを訊《き》く。「たまらないのよう」と彼女はなお身をくねらせ、その太股《ふともも》を私の上にのせる。また、病気になる。ペニシリン代一本二千三百円と頭にひらめく。その親切な医者の診察室でみせて貰った、いくつかの猛烈なジフリーズの写真。鼻が落ち、椿の花片のような痕《あと》が残る。両唇に無数の吹出物、殊に女の局部の一面にビランした惨状。しかし私はその写真を瞼《まぶた》に描きながら、女に身を任せる。済んだ後の、またかという悔い。
そこに七十三になる私の老母が泣き崩れ、半狂乱になり、呶鳴《どな》りこんでくる。とんでもないことをしてくれた。婿に対して面目が立たぬから、すぐに、ここから出て行って欲しい、という。アドルムの酔いの切れている私は、無意志の人形のようなもの。老母に叱られるまま、桂子と身仕度をして立ち上る。そこに姉の優しい泣声、「道ちゃん、いつでも帰っていらっしゃい。意志をハッキリさせてね」
姉は、私の桂子に対する本当の気持を薄々、知っているのだ。愛と憎しみの間。醜い哀れなものに対する、どうにもならぬ憐憫《れんびん》。私は
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