。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって此方《こちら》をみる、クルウの先輩達《せんぱいたち》もいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての叱声《しっせい》に聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことを怖《おそ》れ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる自由』《スタアンリバティ》を称《とな》え、笑って、その議論を一蹴《いっしゅう》した。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。光輝《こうき》ある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、伊達《だて》では、ねエんだろ。俺《おれ》は今朝、ある忌《いま》わしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。否《いや》、今でも、そんな話は信用しとらん。
 しかし、こういっただけで、若《も》し、その事実ありとしても、その当人達は、充分《じゅうぶん》、自戒《じかい》してくれると思う。頼《たの》むから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
 そういい棄《す》てると博士をはじめ、幹部連はさっさと引揚《ひきあ》げてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとの騒《さわ》ぎが大変。どこにでもいる噂《うわさ》好きな人達が、大声で、見てきたような嘘《うそ》をいいあったり、猥褻《わいせつ》な想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、茫然《ぼうぜん》と身動きもできませんでした。
 ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの醜聞《スキャンダル》にあて嵌《は》めてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ大坂《ダイハン》一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「大坂《ダイハン》だけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体の恥《はじ》だからな」とぼくを睨《にら》みつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、寡黙《かもく》なKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的に嘴《くちばし》をだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
 尤《もっと》も、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキの蔭《かげ》で、抱擁《ほうよう》し合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
 皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰する処《ところ》です。出帆《しゅっぱん》前からの神経異常が、あなたとの愉《たの》しい交わりに、紛《まぎ》らわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭の芯《しん》は重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずに肯《うなず》くばかりでした。
 ぼくは前から、左側の瞼《まぶた》だけが二重《ふたえ》で、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にする為《ため》には、眼を大きく上に瞠《みは》ってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたと逢《あ》う前には、よくやって、顔を綺麗《きれい》にしようと思ったものです。その癖《くせ》がちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、瞳《ひとみ》をパチリと動かす。
 と、森さんが、「おい大坂《ダイハン》、止《よ》さんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、面白《おもしろ》がり、声を荒げて聞いた。森さんが「否《いや》、厭《いや》らしいッたら、ありゃしない。此奴《こいつ》ったら」と、ぼくのほうを顎《あご》でしゃくって、「ウインクの真似《まね》をしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく三白眼《さんぱくがん》をむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と補欠《サブ》の佐藤が、憎《にく》らしく、お節介《せっかい》な口を出すと、皆がどッとふきだしました。
 その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がする程《ほど》、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆から扱《あつか》われるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
 結局さんざん嘲弄《ちょうろう》されてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように口喧《やかま》しく、先輩達から怒鳴《どな》られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
 こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ迄《まで》いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな孤独癖《こどくへき》がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、杏《あんず》の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
 とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、口惜《くや》しさから、殆《ほとん》ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに着更《きが》え、誰《だれ》もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村|嬢《じょう》に逢いました。
 中村さんは、小さい唇《くち》をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、監督《かんとく》さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口|利《き》いてもいかん、なんて、阿呆《あほ》らしいわ」ぼくも、合槌《あいづち》うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、益々雄弁《ますますゆうべん》に「ほんとに嫌《いや》らし。山田さんや高橋さんみたいに、仰山《ぎょうさん》、白粉《おしろい》や紅をべたべた塗《ぬ》るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは只《ただ》、中村さんに喋《しゃべ》らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
 やがて、あなたは、剽軽《ひょうきん》に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの掌《てのひら》に、よく熟《う》れた杏の実をひとつ載《の》せると、二人で船室のほうへ駆《か》けてゆきました。ぼくも、杏の実を握《にぎ》りしめ、くるくると鉄梯子《てつばしご》をあがって、頂辺《てっぺん》のボオト・デッキに出ました。
 太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま霞《かす》んでいます。ぼくは、手摺《てすり》に凭《もた》れかかって、杏を食べはじめました。甘酸《あまず》っぱい実を、よく眺《なが》めては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、抛《ほう》ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
 しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを瞰下《みおろ》すと、皆はまだ麻雀《マアジャン》でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で羅府《ロスアンゼルス》行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、莫迦《ばか》みたいに、頬笑《ほほえ》んで、瞰下していると、あなたは、直《す》ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。隣《となり》のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、寝《ね》てしまっている様子です。
 思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて振《ふ》る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
 一瞬《いっしゅん》、船は停《とま》り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと碧《あお》い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは溶《と》け込んだ気がしたが、それも束《つか》の間《ま》、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり恐《おそろ》しく、身体を翻《ひるが》えし、バック台の方へ逃《に》げて行き、こっとん、こっとん、微笑《びしょう》のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ応《こた》えると、また、にこにこと笑い交《かわ》して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
 翌晩でしたか、ひどい時化《しけ》の最中、すき[#「すき」に傍点]焼会がありました。大抵《たいてい》のひとが出て来ないほど、船が、凄《すさ》まじくロオリングするなか、ぼくは盛《さか》んに、牛飲馬食、二番の虎《とら》さんや、水泳の安《やす》さんなんかと一緒《いっしょ》に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の甘美《かんび》さが、まだ残っている気がしたのでした。

 そして、いよいよ Blue Hawaii です。

     九

 ハワイの想《おも》い出《で》は、レイの花からでした。
 第一装《だいいっそう》のブレザァコオトに着更《きが》え、甲板《かんぱん》に立っていると、上甲板のほうで、「鱶《ふか》が釣《つ》れた」と騒《さわ》ぎたて、みんな駆《か》けてゆきました。しかし、ぼくは漸《ようや》く、雲影模糊《うんえいもこ》とみえそめた島々の蒼《あお》さを驚異《きょうい》と憧憬《どうけい》の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
 未知の国を初めてまのあたり眺《なが》める感動と、あなたへの思慕《しぼ》とがありました。その頃《ころ》、漸くにして、自分の技倆《ぎりょう》の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、蔵《しま》っておかねばならぬと、おもった。然《しか》し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの焦躁《しょうそう》はひどいものでした。
 ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。或《あ》る人達が、わめきちらす、女子選手達のお尻《しり》についての無遠慮《ぶえんりょ》な評言を、ぼくは堪《た》えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん後《おく》れてあなたが、うち萎《しお》れた姿をみせた。
 あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、醜《みにく》く、年老《としと》って、なにか人目を恥《は》じ、泣いたあとのような赤い眼と手に皺《しわ》くちゃの手巾《ハンカチ》を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、黯然《あんぜん》となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが逢《あ》ってから、初めて厚目に、白粉《おしろい》をつけ、紅を塗《ぬ》っていた。その田舎娘《いなかむすめ》みたいなお化粧《けしょう》が、涙《なみだ》で崩《くず》れたあなたほど、惨《みじ》めに可哀想《かわいそう》にみえたものはありません。
 あたかも、直《す》ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎|邦人《ほうじん》からの、白い首飾《くびかざ》りの花が掛《か》けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて貰《もら》っていましたが、
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