人形は踊りを止《や》め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
ベニスに着いてから、竜《ドラゴン》の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
トロッコ様の箱車《はこぐるま》の座席が三段にわけてあり、まえに豪傑《ごうけつ》の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり握《にぎ》っているうち、車は滑《すべ》りだし、深い穴のなかに陥《お》ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も反《そ》るような急角度の勾配《こうばい》でした。あれよ、あれよという間に、いちばん頂辺《てっぺん》にまで出ると、遥《はる》かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという豪華船《ごうかせん》――当時は禁酒法《ドライ》でしたから――が豆《まめ》のように、ちいさい。が次の瞬間《しゅんかん》に、車は急転直下、直角にちかい絶壁《ぜっぺき》を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、腰《こし》が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり斜《なな》めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の髪《かみ》が、風にふかれて舞《ま》い上がるのも、恐怖《きょうふ》に追われ逆立つおもいでした。
もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び吐《は》きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、今更《いまさら》のように聳《そび》えたつサイクロレエンを眺《なが》めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を誰《だれ》かが言いだすと、途端《とたん》に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
それまでに、サイクロレエンに乗っていた酔《よ》っぱらいの水兵が、滑走《かっそう》の途中、立ち上がり、横木にはさまれて頸《くび》を折ったとか、赤ん坊を抱《だ》いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな嘘《うそ》のような話も真実におもわれる物凄《ものすご》さでした。
ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、虚心《きょしん》に、眺《なが》めていました。
その後、羅府《ロスアンゼルス》動物園へ、選手一同|赴《おもむ》いた折にも、巨《おお》きな象の二三頭が、放し飼《が》いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を繋《つな》ぎ歩いているあなたの姿をお見掛《みか》けしたことがあります。
その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、皆《みんな》にまた口汚《くちぎた》なくいわれる疑懼《ぎく》と、ひとつは日頃嘲弄《ひごろちょうろう》される復讐《ふくしゅう》の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを盗《ぬす》み、東海さんの困却《こんきゃく》をまのあたりみせられ、些《いささ》か後悔《こうかい》の念に駆《か》られ、良心の苛責《かしゃく》もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を掴《つか》まえる為《ため》、すっかり茫然《ぼうぜん》としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる想《おも》いで眼をそらした。
その癖《くせ》、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに惹《ひ》かれるのでした。
そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、例《たと》えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった都々逸《どどいつ》の文句のように錯綜《さくそう》して、あなたを慕《した》っていたのです。
マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、養狐場《ようこじょう》のほうへ行きかけると、すれちがった若い亜米利加娘《アメリカむすめ》が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで撮《うつ》してくれというのです。たいへん朗《ほが》らかな、可愛《かわい》い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり名刺《めいし》を貰《もら》ったり、手振《てぶ》り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、奇妙《きみょう》に強く、想われるのはやはりあなたの面影《おもかげ》でした。
ホワイトポイントヘ魚釣《さかなつ》りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、無闇《むやみ》やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、彼等《かれら》が、勝手放題に、淫《みだ》らな踊り方をしたり、または木蔭《こかげ》で抱擁《ほうよう》し合っているのをみると、急に淋《さび》しく、あなたが欲《ほ》しくてたまらなくなるのでした。
試合《ゲエム》が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十|弗《ドル》もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな無為《むい》な日々をすごすことが多かった。
いまでも憶《おも》いだす、なつかしい路《みち》は、合宿裏の花壇《かだん》にかこまれた鋪道《ほどう》のことです。
ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、陽《ひ》があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に紅《あか》く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら何遍《なんべん》も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック応援歌《おうえんか》、さては浪花節《なにわぶし》に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも音痴《おんち》はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした阿呆《あほ》らしい風景でした。
そんなとき、いちばん誰|憚《はば》からず、あなたのことを想って、愉《たの》しいときを過しました。白昼、花々|匂《にお》う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、浄《きよ》らかな童女のような相貌《そうぼう》で、ぼくにつき纏《まと》っていたのです。
二十
宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八|歳《さい》になる、ナンシイという可愛《かわい》い看板娘《かんばんむすめ》がおりました。
ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所の子供達と見物した帰りに、スマックなぞ噛《かじ》りに立寄るくらいでしたが、KOの柴山や上原などは、よくかよっていて行けばいつも顔を合せるほどでした。ことに美少年の上原などは、ナンシイ嬢《じょう》と仲が良く、いつもスタンドに肘《ひじ》つきあっては話を交していました。
ある日の事、一緒《いっしょ》に近所の床屋《とこや》まできた柴山と肩《かた》をくんで、その店に入って行くと、上原がもう来ていて、娘さんとなにか笑い話をしています。ぼく達は隅《すみ》っこでチョコレエトクリイムを貰《もら》い、二人でぼそぼそ嘗《な》めているとき、入口のドアを荒々《あらあら》しく押《お》して一人のアメリカの大学生が入ってきて、なにも註文《ちゅうもん》せず、スタンドの前に立ち、腕《うで》を組んだまま、じっと上原とナンシイ嬢の様子をみつめていました。
やがて上原の傍《そば》につかつかと立ち寄り、彼の肩を押えて、早口になにか言いだします。素破《すわ》とおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、和《なご》やかな表情で、上原にドライブをしないかと誘《さそ》っています。上原はぼく達に一緒に来るかい、と聞き、ぼく達が承諾《しょうだく》すると、それではと、大学生に、行く旨《むね》を返事していました。
そこで四人が、表においてあった大学生のセダンに乗りこむと、彼《かれ》は、ロングビイチの海岸まで車を走らせて行きました。賑《にぎ》やかで面白《おもしろ》そうな海水浴場のほうは素通りにして、荒涼《こうりょう》とした砂っ原に降りると、大学生は上原の腕をとって、浪打際《なみうちぎわ》のほうへゆきます。さっきから大学生の上原をみる眼が少し変ってるなと思っていたら、大学生はやにわに、上半身、真裸《まっぱだか》になって、上原に角力《すもう》をいどみかけるのです。上原は、はにかんだような微笑《ほほえ》みを浮《うか》べながらも、シャツを脱《ぬ》ぎ裸になりました。
ナルシサスもかくやと思われる美しい顔立ちに十九歳の若々しい肉体は、アポロのように見事に発育して引き締《しま》っています。大学生も毛深くて逞《たくま》しいヘラクレスみたいな身体をしていましたが、上原のすべすべした小麦色の皮膚《ひふ》を愛情のこもった眼付で、撫《な》でまわしていました。
二人の相撲《すもう》は力を入れ、むきになっている癖《くせ》に、時々いかにもこそばゆいという風に身悶《みもだ》えしてキャッキャッと笑い興じていました。汗《あせ》ばんで転がるたびに砂|塗《まみ》れになってゆく、上原の肉体も、額に髪が絡《から》みついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、膨《ふく》らみもでて来て美しく、ぼく達でさえ些《いささ》か色情的に悩《なや》ましさを覚えたほどです。しかし何時迄《いつまで》もみているのは莫迦々々《ばかばか》しくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
遅《おそ》く夕方になってから戻《もど》ってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっと判《わか》った気がしました。
帰朝する前日でしたか、ロオタリイ倶楽部《クラブ》での、鐘《ベル》ばかり鳴らしてはその度《たび》に立ったり坐《すわ》ったりする学者ばかりのしかつめらしい招待会から帰ってくると、在留|邦人《ほうじん》の歓送会が、夕方から都ホテルであるとのことで、出迎《でむか》えの自動車も来ていて、直《す》ぐとんで行ったのでした。
男はタキシイド、女は紋服《もんぷく》かイブニング・ドレスといった豪奢《ごうしゃ》な宴会《えんかい》で、カルホルニア一流の邦人名士の御接待でした。ぼくの坐った卓子《テエブル》は、沢村、松山、虎さんとぼくの四人で、接待して下さる邦人のほうは、立派な御主人夫妻と上品なお祖母様《ばあさま》、それに二十一になる美しいお嬢さんの御一家でした。
話をしているうちに偶然《ぐうぜん》、そのお嬢さんがぼくの育った鎌倉《かまくら》の稲村《いなむら》ケ崎《さき》につい昨年|迄《まで》、おられたことが解《わか》り、二人の間に、七里ケ浜や極楽寺《ごくらくじ》辺《あた》りの景色や土地の人の噂《うわさ》などがはずみ、ぼくは浮々《うきうき》と愉《たの》しかったのです。その内に始まった饗応《きょうおう》の演芸が、いかにも亜米利加三界まで流れてきたという感じの浪花節《なにわぶし》で、虎髭《とらひげ》を生《はや》した語り手が苦しそうに見えるまで面を歪《ゆが》めて水戸黄門様の声を絞《しぼ》りだすのに、御祖母様は顔を顰《しか》め、「妾《わたし》はどうしても、浪花節は煩《うる》さいばかりで嫌《きら》いですよ」といわれる。お嬢さんとの会話で気が浮立っていたぼくは
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