して、ぼくはあなたのことを忘れ、只管《ひたすら》、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
 合宿前の日当りの好《よ》い芝生《しばふ》に、皆《みんな》は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、封筒《ふうとう》の宛名《あてな》に「ホラ、彼女《かのじょ》からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの処《ところ》へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
 その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは違《ちが》うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの肩《かた》を叩《たた》き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、一瞬《いっしゅん》、憎悪《ぞうお》に歪《ゆが》んだような気がしました。我慢《がまん》できないような厭《いや》らしい沈黙《ちんもく》のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、鍵《かぎ》を降しました。
 風呂場《シャワルウム》と
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