《じゅうじつ》した時間でした。
飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに腰《こし》を降し、瀝青《チャン》のように、たぎった海を見ています。暫《しばら》く経《た》ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の上衣《うわぎ》を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と大欠伸《おおあくび》をしてから、周囲をみまわし、「大坂《ダイハン》とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外《けんがい》の溝《みぞ》のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の笑《え》みがうかぶ、得意さでした。
ことに、ぼくをいつも庇護《ひご》してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、褒《ほ》めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の零《ゼロ》なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
勿論《もちろん》、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、純粋《じゅんすい》に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
後年、ぼくは、或《あ》る女達と、もっと恋愛《れんあい》らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、所謂《いわゆる》恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を装《よそお》って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜《くや》しく、遊びの楽しさの他《ほか》には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを止《や》めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、嘘《うそ》になる気がします。
しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が忍《しの》びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、影《かげ》を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。
七
ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから誘《さそ》うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
結局、あなた達の写真を貰《もら》える嬉《うれ》しさもあり、白地に、紫《むらさき》の菖蒲《しょうぶ》を散らした浴衣《ゆかた》をきたあなたと、紅《あか》いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの蔭《かげ》に、ひっぱり出し、村川が、写真を撮《と》り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
二三日|経《た》って、出来上がった写真を、交換《こうかん》し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が円《まる》く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の娘《むすめ》さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の猫《ねこ》、といった感じに撮れていたので、皆《みんな》で、それを指摘し合っては、騒々《そうぞう》しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、一寸《ちょっと》見るなり、「フン」と鼻で笑って、抛《ほう》り出し、行ってしまった。
その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、名簿《めいぼ》を取りに立とうとすると、東海さんが、突然《とつぜん》、大声で、「大坂《ダイハン》に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても詳《くわ》しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に応《こた》えました。すると、松山さんが、「ほう、大坂《ダイハン》はそんなに、女子選手の通《つう》なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、誰彼《だれかれ》の皮肉な目付が、ぞっとするほど、厭《いや》だった。
又《また》ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、逢《あ》
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