み入れると、悚然《しょうぜん》、頭から水を掛けられたようなショックを受け、絨毯《じゅうたん》のうえに身が釘付《くぎづ》けになりました。あなたが、衆人|環視《かんし》のなかで泣いていたのです。
あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に醜聞《スキャンダル》の件で、面罵《めんば》されたのだといいます。ぼくが傍《そば》に居合せたら恐《おそ》らく、身体の震《ふる》える憤《いきどお》りに気が狂《くる》いそうだったことでしょう。
このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは居竦《いすく》んでしまいました。紺《こん》のベレエ帽《ぼう》に紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄り添《そ》って慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が一斉《いっせい》に、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキを廻《まわ》り歩きました。黒い海だった。走る波でした。
二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
思いきったぼくは臆面《おくめん》もなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな可憐《かれん》な風がありました。
ぼくは不作法にも突然《とつぜん》あなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとは未《ま》だ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは憤慨《ふんがい》しながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、嫌《いや》だったから断ると、無理に、そりゃしつこく誘《さそ》うのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉が解《わか》らないから、若《も》し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、隅《すみ》に立っていたの。気味がわるかったけれど我慢《がまん》して一緒《いっしょ》に並《なら》んでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうして握《にぎ》ったのでしょ。ぞうっとして、急いで、振《ふ》りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
それだけの事実が、こんなにも歪曲《わいきょく》され拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えを纏《まと》め、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の邪意《じゃい》はなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、若《も》しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも賢明《けんめい》じゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも彼方《あちら》の習慣通りにやられては堪《たま》らない。ぼくが会って、あなたのことも、明瞭《めいりょう》に、あやまらせて置きます」
ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が羨《うらやま》しかった。ぼくには、悔恨《かいこん》と憧憬《どうけい》しかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づき巧《たく》みな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を傍観《ぼうかん》していました。
ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの肺腑《はいふ》に染《し》み渡《わた》るとみえ、彼はいかにも恐縮《きょうしゅく》した様子で、「I'm sorry.」を繰返《くりかえ》しては頷《うなず》いていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ無髯《むぜん》の川北氏が、六
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