《ゆえ》とでも思ったのでしょう。照れ臭《くさ》くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床《とこ》をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕《まくら》もとの障子《しょうじ》一面に、赫々《あかあか》と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端《とたん》、襖《ふすま》ごしに、舵手《だしゅ》の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞《ふさ》がりました。
もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴《き》きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠《ねむ》ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主《ぼうず》、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫《ねこ》ッ可愛《かわい》がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未《ま》だ、ほんとに子供でした。
ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言《こごと》一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴《やつ》があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌《おおあわ》てに、支度《したく》を始めました。
あとになって、判《わか》ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきま
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