い瞳に怒りだけを示し、縺れる舌で「ほたえな」(ふざけるなとの方言)とぼくを叱りつけ、蜻蛉は彼の鼻先にしたたか噛みついて逃げ去るし、少年のぼくは恐れと狂的に笑いたい欲望に引き裂かれる苦痛を感じた思い出があったので、その老祖父が、「さようなら」してくれたのに、むしろホッとした。無論、その死顔も忘れている。お栄ちゃんは長兄が付添い、避病院の一室で死に、その葬式は祖父と一緒に盛大に営なまれたが、ぼくは自分と同年輩のこの少女の死に、触れたくもない恐怖があり、彼女の記憶もきれいに抹殺されている。
二年経ち、中学一年の春、五十三歳の父が結核性腹膜炎で、アッという間に死んだ。癇癪持で酒乱の父に兄や姉は叱られた怖い思い出ばかり残っているようだが、末ッ子のぼくは父から嘗《な》められるみたいに愛された記憶が強い。まだぼくが小学校に上ったばかりの頃、母が同郷の作家崩れの青年に脅迫され、一週間ほど家出した厭らしい出来事があった。この間の父の、ぼくへの愛情はいま思い出しても狂的爆発的だった。毎日、役所の帰りには実物大の子馬の玩具とか電気機関車のような高価な土産をぼくの望むまま買ってきてくれる、一度は、一生にたった一遍の出来事だったが、父はぼくを連れ、日本橋の三越にいったものだ。普通でさえ腸が弱く、それだけ食いしん坊のぼくが、甘え放題に暴飲暴食させて貰ったから堪らない。ぼくは漱石みたいに髭を生した怖い顔の父に肩車で乗っていて、したたか父に黄金の臭い雨を浴せかけた。父は怒らず、そんなぼくを便所に連れてゆき、お尻をきれいにしてくれたが、ぼくはその時、父の瞳が潤んでいたのを見逃がさず、流石《さすが》になんとも遣切れぬ気持だった。
その他にも生々しい動物的な愛情を浴せられた思い出のある父だったが、そんな父だけに彼の死、父のぼくに対する「さようなら」にぼくは背中を向け、つとめて答えまいとしたものだ。父が病院で死に、翌日、霊柩車で遺骸が帰ってきた時、ぼくは父の死顔をみるのが恐ろしく、兄や姉の制止もきかず、ひとりで父の建てた茶室や東家の処々にある裏山に逃げ上っていた。山の頂きに父の回向院から貰ってきた、安政元年歿、釈清妙童女とされた七歳の幼女の無縁仏の石地蔵があり、毎夜かすかに泣き声が聞えるとのわが家の伝説の纒わっている風雨にさらされた割に眼鼻立ちのハッキリした地蔵が立っていたが、ぼくはその頭を撫で、泣こうと努力し少しも泣けなかった。悲哀よりも恐怖が強かったのだ。
中学の卒業直前、ぼくは井上という友人に突然「さようなら」された。井上は、後家になった母が、藤沢の町に小さい雑貨屋を営んでいたひとり息子で、内気な平凡な性質。五年になる迄は学業もスポオツもこれといって頭角をぬくものがなく、すべて中等の出来だったのが、五年に進級して間もなく、数学に抜群の成績を示し、先生やぼくたちを驚嘆させた。ぼくの中学はスパルタ教育で天下に名高く、毎週土曜の午後、全校をあげ数マイルのマラソン競走をさせられる行事があり、そうした多人数との競走や、息の苦しい数マイルのマラソンは思っただけでも先に参ってしまうぼくは、大抵、落伍者や見学者の常連のひとりで、その時も、校内に立ち、ぼんやりみんなの走り帰るのを待っていると、いつもの優勝者、剣道二段で陸上競技部の主将をしている伊沢の代りに、小身痩躯の井上が、予想を裏切り、学校の記録を破るスピィディな余裕|綽々《しゃくしゃく》の走り方で先頭に立ち、帰ってきた。白いランニングの胸を張り、軽快に白足袋《しろたび》を走らせ、熱いものでも吹くような工夫された規則的な息使い。
ぼくは奇蹟でも眺めたように苦しいほど驚いたが、それから一カ月しない中に、二、三日、休んでいた井上が死んだと先生から聞かされ、一層、苦しい驚愕を感じた。井上が死の直前、そのように学業スポオツに頭角を現わしたのが、彼から突然、「さようなら」されてみるとひどく空しい詰らぬことのように思われたのである。
続いて大学時代。ぼくは川合という文学の友達から肺病で、「さようなら」され、池田という同じ非合法運動の友人には、ぼくたちの恥かしい転向の際、剃刀で彼自ら右手首の動脈を切り温湯につけるという、暴力的方法で、「さようなら」された。順序からいえば池田のほうが先で、学部一年の時だった。池田は良心的なコミニストだったが、ぼくのように大男で、同じように臆病な欠点があった。大男の為ひと一倍、他人の視線を感じキョトキョトするのが、ぼくたちの非合法運動――といっても週に一度、読書会をやり、その席上アカハタを配り金を集め、出席している党のひとにその金を渡す程度――を大袈裟に自覚していたので、余計ひどくなっていたのだ。彼はただ新宿に映画を見た時、眼つきが怪しいとの理由で、駅頭に張っていた特高に掴まった。ポケットに築地の切
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