符の切端しが残っていたので、豚箱に入れられ、ワセダの下宿先を捜査されると、始末してなかったアカハタが一部出てきた。
その為、彼は淀橋、戸塚と二つの警察を二十九日間宛のタライ廻しを食い、毎日のように拷問されたが、自分のルウズさから友人に迷惑をかけまいと、歯を食いしばり、知らぬ存ぜぬで頑張り続け、義兄の弁護士の奔走で、約二カ月目に釈放されたが、その日すぐ学校に出てきて、ぼくたち仲間と、微笑と涙の握手、談笑を交していながら、その夜、下宿の一室で前述のようにして自殺したのだ。ぼくは相不変、死体をみるのが厭で苦しかったが、この時は他の友人たちの手前、わざと嫌いな蛇を掴んでみせるような気持で、彼の死体の置かれた部屋に駆けつけていった。池田は一番苦痛のない死に方を選び、大量の睡眠剤を飲んだ上、金盥《かなだらい》に温湯を入れ、そこに動脈を切った手首を入れたものらしい。全身の血がしぼり出されたように、血は金盥を越え畳一面に染みていた。その代り白蝋のように血の気のない彼の死顔は放心した如くのどかにみえた。だがぼくは彼の死魚のような瞳の奥に、死への焦燥と恐怖を認め、やはり死体へのどうにもならぬ嫌悪があった。その遺書には睡眠剤が利いてきてからのものらしく、シドロモドロに乱れていてこんな意味のことが書いてあった。
(科学を信ずれば世界が平和な共産主義聯邦になる必然性があるのと同じ確かさで、いつか太陽も冷却し地球も亡び、人類も死に絶えると信ぜられる。結局、滅亡する運命の人類の為、ユウトピアを作ろうと犠牲になることは無意味である。即ち生きること自体が無意味と思われるから自分は死ぬ)
ぼくは女のひとの愛情の楽しさ苦しさも知らずに、二十二歳の若さで死んだ池田をバカ野郎とも可哀想とも思ったが、彼のつきつめた誠実さに、自分の放恣《ほうし》な生き方が邪魔されるのが厭で、彼の自殺もできるだけ忘れるよう努力した。ぼくは池田や自分の政治的な理想にあっさり、「さようなら」を告げ、自分の生きる目的を文学の世界に見出そうとしたのだ。例えば夕方、子供たちが、「さようなら」と叫びあい、後をもみずに自分たちの家庭に帰り、そこで今迄の遊び仲間のことなど、夢にも思わず、晩御飯や兄弟喧嘩や漫画の本に熱中できる単純さで、ぼくはその時、政治や昔の同志に向い簡単に自我的な「さようなら」をいえたのである。
処で川合という胸を病んでいた新しい文学の友人は、はじめから近く自分の死ぬのを予感していた。彼はルパイヤットの詩人が、(ぼくたちは人形で、人形使いは自然。それは比喩でない現実だよ。この席で一くさり演技がすめば、ひとりずつ無の手箱に入れられるだけさ)と歌ったような無常観に安住しながら、自然を少女を文学を、彼岸のものとして美しく眺めていた。川合は既に自分を亡霊扱いにしていたので、ぼくたちも彼を別の世界のひとのように遠くからいたわって、つきあう他はなかった。川合はぼくたちに黙って、何度となく血を吐き、死期が迫るとこっそり田舎に帰って死んでしまった。ぼくはそんな彼に最後まで、「さようなら」を云えず、彼もぼくたちに、「さようなら」をいわず、永遠に別れることとなった。それ故、ぼくは十五年後の今でも、ふッと川合が生きていて、そのスラリとした長身に青白い童顔を微笑させ、ぼくの前に出てきて、「死んでしまった癖に、生きている世界を散歩してみるのも愉しいもんだよ。空の蒼さ。木の葉の青さ。花の紅さ。ピチピチした少女。ただ急がしそうな中年の勤め人。みんな生きているのには意味があるんだ。生きているというだけで死者の眼からは全て美しく見えるんだよ」と卒直な感想を語りそうな錯覚がする。
大学を出てやっと就職したかと思えば、昭和十二年、日本軍閥の中国に仕向ける侵略戦争はとめどがなくなり、ぼくも補充兵として召集を受け、半年足らず原隊で人殺しの教育を受けてから北支の前線に引張りだされた。その頃から日本人は肉親、友人、愛人とやたらに「さようなら」を云い合うようになったのだ。日本人の戦争道徳は(生きて帰ると思うなよ)である。出征の際、(また逢う日まで)を祈る別離の言葉なぞとんでもない。どうしても、(左様なる運命だからお別れします)の「さようなら」がいちばんふさわしい。その上、女のひとだと、「さようなら」に「御免下さい」をつけ加える。(そうした運命になったのをお許し下さい)と強権に対し更に卑屈に詫びているのである。まるで奴隷の言葉と呆れるより他はない。
ぼくたちはそうした奴隷の言葉に送られた、奴隷の軍隊としての惨虐性を中国において遺憾なく発揮した。「グッドバイ」の意味する如く、神を傍らに持たず、中国語の、さよなら「再見《ツァイチェン》」の意味する、愛する人たちとの再会の希望もない軍隊は、相手の人間をいたずらに傷つけ殺し軽蔑し憎悪す
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