理の本能から、ぼくは祖母の死因も死顔もなに一つ覚えていない。祖母は享楽好きの土佐女として、五十過ぎても薄化粧したり三味線をひいたり、友人を集め、謡いにこったり花札を戦かわせたりするのを好み、孫のぼくたちを煩さがるような女だったので、彼女の死は少しもぼくを淋しがらせなかった。ぼくは丁度、十歳だった。厳粛な顔の大人たちと共に、祖母の死床の枕頭に坐らせられ、見違えるほど小さく萎びた彼女の顔の上の白布が除かれ、父から始め、彼女の動かない紫色の唇に、ひとりひとりが水に濡らした新しい筆の穂先をおしつけるのを眺めていて、嘔気がするほど気持が悪く、急いでその場から逃げだすと奥の子供部屋で、愛読していた講談本にとりついたのを覚えている。
 続いて翌年、ぼくは例の大正十二年の震災に逢った。ぼくの家は半潰で済んだが、近所には全潰、赤ちゃんを抱いたまま、ぼくの友人の母親が圧死するなぞ、夥《おび》ただしい死者が出て、大揺れの済んだ後、長兄は近くの男たちとその死体発掘作業に従い、ぼくより健康で利発な三ツ上の姉なぞ、その模様を見物にでかけたりしていたが、ぼくは裏の広場に敷かれた戸板に腹這い、未だに現実の世界の鳴動するのを感じながらも、ひとりでまた博文館の長篇講談に読み耽っていた。弱虫のぼくは醜く、恐ろしい死者に対決する勇気がなく、講談本の英雄豪傑の世界に逃げこむことで、震災という現実の恐怖を忘れたかったのだ。それは現在「宮本武蔵」を愛読し、敗戦の苦痛やインフレの恐怖なぞ忘れようとしているある種の日本民衆の心理に共通したものがあるのかも知れぬ。
 だが未だに大地の揺れる最中に、「岩見重太郎」の千人斬りなぞ読んでいた少年のぼくは、その時、現実とロマンスの世界のあまりの開きに、というより生理的に一大ショックを受けた直後だったからだろうか、眩暈《めまい》をおこし、続いて酸っぱい胃液を口や鼻から一杯に嘔いた。二、三日して、父が故郷の土佐から孝行する積りで連れてきたばかりの、中風の老祖父が、震災の衝撃の為か自然に死んだし、彼の看護人として、故郷の村から連れてこられた十五歳のお栄ちゃんという娘まで、震災後流行したチフスに感染し、苦しみもがいて死んでいった。ぼくは一度、震災の前に、この垂死の老祖父を笑わせる積りで、手捕りにしたヤンマ蜻蛉《とんぼ》を、彼のいかつい土色の鼻の頭にとまらせた処、全身不随の老農夫は冷た
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