旧朋輩の女給から、(そのひとが子供と帰っても、夫の画家は依然として前の女流画家と親密にしていて、家庭は地獄みたいだったこと。その為、脊椎カリエスの男の子は帰宅して一月ほどした或る朝、縁側から庭石に落ちて死んだこと。そうしたショックからそのひとも、奔馬性肺結核とかで十日足らずの入院中に死んだ)ときかされ、呆然としてもう一度そのひとに心の中で、「さようなら」をいった。そのひとは最後に、「御免なさい」とぼくに謝まる言葉を習慣として無意識に残したが、本当に謝まる必要があったのは、男性としてのエゴチズム、単純な虚栄なぞから、そのひとが好きだった癖に自分の腕に止めようとしなかったぼくのほうだと実感したのである。
当時のぼくは未だにコミニズムの理想を信じながらも、文学的にはドストエフスキイ、シュストフが流行し、社会的に軍部独裁、戦争激化の時代相に、自分の生の行動哲学として、ヒュウマニズムと日本の封建倫理や浅薄なニヒリズムがゴタ混ぜに身についている奇怪さだった。ぼくは戦死する前に女性の愛情を知りたく、恋愛、結婚にアセる気持でいながら、一方では平気で戦争未亡人を残そうとする自分の我儘《わがまま》な気持を軽蔑していた。ぼくは有閑令嬢のタイピストの女性的な我の強さを嫌った癖に、自分の好きなひとをただ不幸に死なせた自分の男性としての我の強さには平然として堪えられたのだ。胸の底には永遠の女性に憧がれる懸命な祈りまであったのが、気持の表面では、なにどんな女も似たり寄ったりで、結婚はくじびきみたいなもの、どうせ空しく亡びる自分の青春なら、いちばん貧しい娘に与えてやれと気短かに考え、当時、下宿していた家の平凡な娘と野合のようにして一緒になってしまった。
その娘は幼くして父を失い、親類の家を転々として育てられ、とに角、小学校を出ると素人下宿の母のもとに帰り、家事を手伝いながら一銀行の女給仕となり、それ迄に勤続約十年、事務員に昇格し算盤《そろばん》の名手として銀行内に名高い、というような前半生から、ぼくは彼女が苦労しぬいてきた娘として、ぼくを献身的に優しく、ぼくの知識才能も盲目的に敬愛してくれるだろうなぞ、都合の好いことばかり夢想し、両方の肉親の反対も押切り、形だけでも正しい神前結婚をしたのだが、一緒になって一月も経たぬ中、ぼくは自分のおめでたい空想が全て裏切られたのを知った。
貧しくしいたげら
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