しちゃア小さな丸い球をおっことす。熊は幾度でもそいつを呑み込んじまうんだ」
 信じられない、おかしな話だという声が一座に起りました。それを聞いていた一人の男は、そんなバカなことがあってたまるものかといい出しました。
「わしらアこの目で見て来たんだ」
 ビムは保証しました。
 するとバウンもすぐ口を添《そ》えました。
「そうだとも、この目で見て来たんだ。で、そいつをつづけているうちに、急に熊がまっすぐに突立《つった》ちあがり、弓のように体をまげて、痛がってうなりたてて、気が変になったようにまえあしを振りまわし始めたもんだ。キーシュは氷の上をすっ飛んで、熊の手が届《とど》かないところまで逃げて、平気な顔でその様子を眺めているんだ。だが熊はもうあの子になんざ、かまっていない、小さな丸い球のために、体の中に起った苦しみで、夢中なんだからね」
 ビムがそこでまた口を出しました。
「そうだ、たしかに体の中だ。自分の体を引っ掻《か》きむしり、ふざけてる小犬のように氷の上を転がりまわるんだからな。うなったりキューキューいったりする様子を見ていると、どうしたってふざけてるんじゃなくて、痛くてたまらないにちがいないんだ。熊があんなに苦しがっているのは全く見たことがないよ!」
「そうだとも、おれだって見たことはないよ。それに、あんな大きな熊だものなア」
 バウンもそう調子を合わせました。
「やっぱり魔法だ」
 一人の男がいいました。
 するとバウンが答えました。
「それは分からない。ただおれはこの目で見ただけのことを話してるんだよ。いいかね、そのうちに熊はくたびれて弱って来た。そりゃそうだろう、ひどく重い体をしているくせに、無茶苦茶に暴《あば》れまわったんだからな。それからやっこさん、頭を右左へふらふらさせたり、時々坐り込んじゃキューキューいってみたり、泣いたりしながら、海っぱたの氷について歩いてゆく。するとキーシュもゆっくりと熊についてゆくんだ。わしらもキーシュのあとへくっついていったのさ。そうやってその日一日と、あと三日のあいだわしらは歩きつづけたもんだ。熊は弱ったけれど、痛さのためになかなか泣きやまなかったよ」
 さっきの男がまた叫びました。
「まじないだ。まじないにちがいない」
「そうかも知れない。だが、まア聞け――」
 そこでまたビムがバウンに代りました。
「熊はうろつきまわった。こっちへ来るかと思うとあっちへゆく。同じ道をいったり来たり、ぐるぐる輪《わ》をかいて歩きまわったりするんだ。そんなことをしているうちに、とうとうはじめにキーシュに出会った場所の近くへかえって来たもんだ。この時にはもう、熊は這《は》うことも出来ないのだ。そこでキーシュは熊のそばへ寄って、ずぶりと槍《やり》で突き殺してしまったんだ」
「それからどうした」
 せきこんで誰かが聞きました。
「わしらは、キーシュが熊の皮を剥《は》いでいるのをほっといて、この話をしようと思って駈《か》けもどって来たんだよ」

  六

 その日の午後、女どもが肉を運んで来る間に、男たちは寄合《よりあ》って相談していました。キーシュが家へ帰るとすぐ使《つかい》が来て、寄合の席へ出て来いといういいつけでした。だが彼は、自分はお腹がすいて疲れている、それに自分の雪小屋は大きくて居心地がよいし、大勢の人を入れることが出来るのだ、という返事を持たせて使をかえしてやりました。
 寄合の席にいた男たちは、どうかしてほんとのところが知りたいという気持で一ぱいだったので、それをきくと一斉《いっせい》に立ちあがり、残らずキーシュの雪小屋へ出かけてゆきました。キーシュは食事をしていましたが、礼儀正しく一同を迎え入れて、それぞれの身分に従って順序よく皆を席につかせました。母親は得意な気もちがしたり、きまりがわるいような気がしたりして落ちつきませんでしたが、キーシュは落ちつきはらっていました。
 村の頭《かしら》は、ビムとバウンが持ちかえった話をくりかえして、最後にいかめしい声でいいました。
「ところでお前の狩の仕方をあかしてもらいたいのだ、ええキーシュ。お前はほんとに魔法を使っているのかな」
 キーシュは目をあげて微笑《びしょう》しました。
「そんなことはありません、魔法などというものが子供に覚《おぼ》えられるでしょうか。僕は魔法使なんてものに知合《しりあい》はありません。僕は楽に熊が殺せる手だてを考え出した、ただそれだけのことです。頭の力です、魔法の力ではありません」
「誰にでも出来ることなのか」
「出来ますとも」
 しばらくの間は物をいう者は一人もありませんでした。男たちは顔を見合わせています。キーシュは平気で食事をつづけていました。
 とうとう村の頭がふるえ声で尋《たず》ねました。
「なア、キーシュ、それを教えてくれるわけにはゆかないかな」
 キーシュは熊の背骨《せぼね》をしゃぶり終って立ちあがりました。
「いいですとも、教えてあげましょう。わけのないことです。御覧なさい」
 彼は薄い鯨髭《くじらひげ》の長いのを一本拾いあげて皆に見せました。両端《りょうはし》は針のように鋭くとがらせてあります。それを彼はていねいにぐるぐる巻いてゆきました。紐《ひも》のように長い鯨髭が、やがて彼の掌《てのひら》の中へかくれてしまいます。それから急にはなすと、ぴんと前のように伸びました。彼はこんどは鯨の脂肉《あぶらにく》のかたまりを一つ取りあげました。
「この小さな鯨の脂肉を、こんなふうに中をくぼませます。この中へしっかり巻いた鯨髭を押し込んで、その上にもう一つ脂肉をぎゅっとくっつけるのです。これをまるめて外へ出しておくと、一晩のうちにかんかんにこおりついてしまいます。熊がこの小さな球を呑み込むと脂肉はとける、さきのとんがった鯨髭がしゃっきり突立《つった》って、熊のはらわたに突きささります。そこで熊は病気になるのです。熊がすっかり弱りきるのを待って、鎗《やり》で突き殺す。まったくわけのないことですよ」
 それを聞いていた一同は感心のあまり思わず声をあげました。そして、すっかりキーシュの話をのみ込みました。
 キーシュは魔法の力をかりず、頭の力を使ったのです。そして一番みすぼらしい雪小屋から出て、村の頭《かしら》になりました。彼が生きていた間じゅう、彼の村人は栄《さか》え、夜、食べる肉がないといって泣くものは一人もなかったということです。



底本:「少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集」三一書房
   1990(平成2)年3月31日第1版第1刷発行
入力:門田裕志
校正:富田倫生
2007年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉田 甲子太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング