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一男は、縦横に組み上げられた鉄材の間から、遠く澄んだ空へ眼を放《はな》った。上総《かずさ》房州《ぼうしゅう》の山波《やまなみ》がくっきりと、彫《きざ》んだような輪廓《りんかく》を見せている。品川の海に浮かんでいるお台場《だいば》が、一つ二つ三つ、五つ六つ並んで緑色の可愛《かわい》い置物のようだ。銀座、芝あたりの町は小人島《こびとじま》のようだし、芝浦の岸壁《がんぺき》に碇泊《ていはく》している汽船はまるで玩具《おもちゃ》だ。すぐ近くの日比谷公園は、飛行機から見下《みおろ》すように、立樹《たちき》も建物も押しつぶされたように平ったく見える。
風がさわやかに吹いていた。
「なアに、なんとかなるさ。ならなきゃして見せるまでだ」
彼は急にはればれとした気持になって、シャツの襟《えり》をはだけて日にやけた胸を出した。まるで海へ帰ったようだ。
その時、うしろに立っていた岸本監督は、一男が無造作《むぞうさ》に歩き出したのを見て、はっとした。少年は今まで立っていた板張《いたばり》から出はずれると、ことさらに手で平均をとる様子もなく、両足をならべて立つ幅《はば》もない鉄梁《てつりょう》を伝《つた》って、ひょいとビルディングの一番外側になっている鉄桁《てつげた》に足をのせた。そこで彼はポケットに手を突込んだまんま、目の下二十五メートルのところを白く流れている大通を見下した。自動車、自転車の往来でも眺めているのだろう。彼は無心にいつまでも見下している。
監督は大声が出したくなったのを、やっとのことで我慢した。足を踏み外《はず》したらどうするというのだ。彼はその時一男をひきずり倒して殴《なぐ》りつけたい程じりじりすると同時に、また一方では、その面憎《つらにく》いまで落ちつきはらった胆《きも》っ玉《たま》の太さに、思うさま拍手を送りたくなったのだった。
「うむ、大した胆だ。惜しいもんだな」
岸本監督は喉の奥でひとりうめいた。
そのうち、あたりに働いている職人たちのうちにも、何人かその危いところに立っている一男の姿に気づいたものがあった。彼等はその姿に気づくと一しょにもう眼をはなすことが出来なかった。仕事をつづけることも忘れて、あっ気《け》にとられて見つめたっきりになってしまった。やや俯向《うつむ》き加減《かげん》の一男の小さい姿は、遥かに青み渡った帝都の大空にくっきりと浮かんで、銅像かなんかのように微塵《みじん》も動きそうにない。見ている職人たちの膝頭《ひざがしら》がかえってがちがち動きはじめて来た。そしてどの心の中にも、「えらい!」と大声に怒鳴ってやりたいような気持が動きはじめた。
その時、まったく不意に――と見ている方の連中には思えたのだ――少年は頭を上げると、くるりと向《むき》を変えて、ぶらぶらと監督のいる方へ帰って来た。皆が腹の中ではらはらしていたことなんか、彼はまったく知らないのだ。あらしの海で船のマストに登って仕事をすることにくらべれば、ガッチリ組み上げられた鉄骨の梁《はり》の上を歩くことなどは、それがたとえどんなに高かろうと、何でもないことだ。
一男がもう一度、板張の上に帰って来て、「お邪魔《じゃま》しました」と挨拶してからまるで平地《へいち》を歩くような様子で急な段階を下りて行く姿を、監督は残り惜しそうな眼で見送っていた。
四
曲り曲って細々と地獄の底までつづきそうな階段を、一男は平気で、ポケットへ手を入れたまま、きょろきょろよそ見をしながらゆっくり下りて行った。だが、彼が二階分ほど階段を下りた時だった。あたりの騒がしい物音を突きぬけて、ガーンと鉄材が鉄材にぶつかる恐しい音響が強く鼓膜《こまく》をうった。頭の芯《しん》まで響いて来た。けたたましい人声が聞えたような気もした。一男は立ちどまって上の方を見上げた。
気がつくと、仕事場中の物音が一斉《いっせい》にとまっていた。さっと風が吹いて一切の物音をさらって行ってしまったあとのようだ。変に気味わるく静まりかえっている。その中から監督の叫ぶ声がハッキリ聞えて来た。
「あいつを止《と》めろ! 呼び戻せ! 今の子供を止めるんだ!」
誰かが、どたんどたんと階段を駈《か》け下《お》りて来るらしく、かすかな震動が一男の体に伝わって来た。
「おい、君!」
やや離れたところから呼ばれて振り返った一男の眼に、蒼《あお》ざめた監督の顔が鉄の枠《わく》の間から自分を熱心に見つめているのが映《うつ》った。
「戻ってくれ! 故障だ、怪我人だ」
何人かの職人たちが一度にどっと監督のまわりへ駈け寄ったが、先頭に立っていたのは一男だった。彼はあっという間に、もう、さっきまでいた七階の板張の床の上に監督と並んで立っていた。
監督の眼を追って、頭の上を見上げた一男の顔からも血の気《け》が消えた。
十五メートルもあろうかと思われる、途方もなく大きな鉄の梁《はり》が、起重機から、わずかに一本の鎖で危く斜に支《ささ》えられて、ふらりふらりとさがっているのだ。どうした間違いか、もう一本の吊鎖《つりぐさり》が外れたのだ。その拍子《ひょうし》に、人夫たちのたぐり寄せていた引綱《ひきづな》も、彼等の手からぐいっと持ってゆかれて、すべり落ちてしまったのだ。平均を失ったその鉄の梁は、今にもずるずると滑《すべ》って、骨組だけの八階建のその大建築を、てっぺんからぶち抜いて、がらがらと落ちて行きそうだった。
早くなんとかしなければ――だが、その時一男少年は思わずぐっと唾《つば》をのみ込んだ。彼は一人の職工が一番高い梁の上にまたがったまま、ぐったりとうつぶしているのを見つけ出したのだ。外《はず》れた鎖《くさり》のさきが、大きく揺れる時彼の頭を撃ったものに相違《そうい》ない。彼は明らかに気を失っている。その上、彼が跨《また》がっている梁の片端は、さし込んであった支柱からぐいと外れている。吊った鎖が外れた途端、今|斜《ななめ》にぶら下っているあの梁が、その職人の跨がっている梁に衝突したのだ。あのガーンという恐しい音響は、その時一男の耳を撃ったのであった。亀の子のように空中で首を振っているあの大きな梁が、彼の乗っている梁にもう一度ゴツンとでも触《ふ》れて見ろ! 一男は目をつぶった。
五
だが、岸本監督はさすがに落ちつきをとり戻して、機敏《きびん》に頭を働かせていた。今こそ一男を使う時だ! 大人《おとな》がのればあの梁《はり》は落ちる。だが子供なら……そうだ、一男なら大丈夫だ。
「君、怪我人《けがにん》を助けに行ってくれ。頼む!」
その言葉より早く、一男の靴が飛んだ。監督は輪《わ》にした綱《つな》を彼の首にかけた。最初に太いのを、次に細いのを。
「いいか、さきに、怪我人を梁へしばりつけるんだ。それからあのふらふらしている鉄材に太い方の綱をかけて来い。落ちついてやれ。踏《ふ》み外《はず》したらおしまいだぞ。あわてるなよ」
一男は、上を睨《にら》みながら岸本監督の言葉を聞いていた。分かった。あそこでああして、ここでこうして――彼は仕事の手順を、もう一度自分で腹へたたみ込んだ。深く息をのみ込んで、ぐっと胸を張った。よし! 彼は下っているロープに飛びついた。まったく猿だった。するすると一男の体は瞬《またた》く間《ま》にのぼって行った。そして気絶した人が倒れている梁が支柱《しちゅう》に組み込まれている角《かど》に手がとどくと、ぐいと一度体を丸めてやんわりと梁の上に乗り移った。梁はかすかに顫《ふる》えていた。気を失っている人の体までは八メートルある。梁の幅は十二センチにも足りない。そして足の下は三十メートルもあるうつろの空間だ。
「黙ってろ! やることは分かってるんだ」
誰かが下から指図《さしず》しようとした時、岸本監督は低い声で押さえた。
一男はじっと怪我人に目をつけたまんま、じりじりと進んだ。彼は、時々、梁のゆるぎを止めるために立ちどまらなければならなかった。
いつの間にか風が強くなっていたらしい。一男の鳥打帽子《とりうちぼうし》がさっと風に捲《ま》きあげられて、いがぐり頭が剥出《むきだ》しになった時には、熱心な見物人たちは我しらずうめいた。帽子は鉄骨にぶつかりぶつかり長くかかって落ちて行った。
三メートル、五メートル、一男は気を失っている人に接近して行った。これからが危いところだ。片一方の支柱だけでやっと支《ささ》えられている梁だ、ぐんと外《はず》れたらそれまでだ。
あと一メートル――。
皆は一度に息をついた。一男はゆっくりと梁の上に手をつき、やがて梁に馬のりになって、まず自分の体を安定させた。が、それからの仕事は手早かった。彼は細い方の綱の輪《わ》を首から外すと、死んだようになっている人の体にのりかかって、機敏に縄をかけた。あっという間に、怪我人の体は梁にしっかりと結びつけられていた。
見上げている連中は、ここで何とか声がかけたかった。だが、岸本監督はすぐに様子を察《さっ》して皆を制した。
「まて、あいつが何とかいうまで黙っていろ」
しかし、一男は口もきかず、みんなの方を見ようともしなかった。彼にはまだ仕事が残っていた。第一に怪我人の様子をたしかめなければならない。それから、起重機の鎖から危くぶらさがっている物騒《ぶっそう》な梁に、巧《うま》く引綱《ひきづな》をしばりつけなければならないのだ。
一男は怪我人の背中に手をつき、戦闘帽型の帽子をぬがせた。そして覗《のぞ》き込んだ彼の眼に映ったものは意外にも職工頭の山田の顔だった。ニベもなくさっき自分を断ったあの職工頭の顔だった。なんともいえぬ厳粛《げんしゅく》なものが彼の胸を打った。命にかかわるようなひどい怪我ではありませんように――彼は祈るような気持で丁寧《ていねい》に山田の頭を調べた。血は出ていない、骨が砕けている様子もない。どうも強く打たれたために気を失っているだけのことらしい。よかった、よかった。――と、彼は右足で足場をさぐり、左足を立て、そろそろ腰を浮かしはじめた。見ている人たちは今度はぐっと息をつめた。一男は真直《まっすぐ》にたってからゆっくり向《むき》をかえた。静かに静かに、梁のゆるぎを殺しながら、もと来た方へ引きかえす。進む時よりも気を配っている様子だ。右手をのばした。大支柱のところまでもう二三歩だ。ああ、抱きついた。彼の右手はしっかりと支柱を抱きかかえたのだ。そして、一男ははじめて皆の方を見下して、手を振った。恐しいような歓呼《かんこ》があがって、すぐやんだ。一男が猶予《ゆうよ》なく次の仕事にとりかかったからである。
だが、あとの仕事は楽だった。重々しく揺れまわっている鉄梁《てつりょう》には難なく引綱が結びつけられた。そして一男は残った綱のたまを、監督を中心に群がっている人たちの真中へ手際よく投げ下《おろ》した。何十本かの手が夢中でそれをつかんだ。これで引綱が完全につけられたわけだ。鼻づらは、真《まっ》すぐ落ちても差支《さしつか》えのない場所へ静かに引きよせられた。
大きなバケット(桶《おけ》)をさげた起重機がぐうっと上って来て一男の鼻さきでとまった。彼がひょいとそれに乗りうつると、今度はバケットが梁にしばりつけられた怪我人のそばへ寄って行った。もう危険なふらふらした鎖につられた鉄材がわきへのけられていたから平気でそばに寄れるのである。一男の手は風のように早く動いて職工頭をしばってある細引《ほそびき》をほどいて、そのぐったりした体を両腕で抱いた。体の重さで、彼はバケットの中でよろめいた。起重機はすぐにバケットをぐうっと上へ持ちあげ、ゆるく右の方へ廻転しはじめた。
その時、今まで職工頭をのせていた梁は支えきれなくなって、がらがらとあっちにぶつかりこっちにぶつかり、真逆様《まっさかさま》に墜落して行った。見ている人たちの髪の毛はさか立った。
二人を乗せたバケットが自分等の前までさがって来た時、監督をはじめ板張《いたばり》
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