の音楽学校は、官立学校の常として、コチコチで、生徒どうしの恋愛関係は厳しい批判の的になった。言うなれば御法度破りの反逆児だ。
この天才的な二人が夫婦になって宝塚へ来てくれた。それは新温泉の従業員であった三田出身の藤本一二君の妹さんが、環、智恵子両女史と同級のピアニストである関係から、お世話して頂いたものである。そして、奥さんは声楽を教え、主人はピアノを作曲し、自分でも弾いたりした。しかし舞台へ出て弾くのは困るからというので、今の高木和夫というピアニストを雇って来た。
こういうふうにして宝塚歌劇というものが誕生したのである。
ところで、その頃の考え方として、ただ単に唱歌をうたうのみでは余りに単純過ぎる。よろしく歌劇を上演すべしという主張と、歌劇という名目にとらわれて、高踏的に走り過ぎては温泉場の余興とはなり得ない。一切の理論から離れて、平易なやり易いものをという経営者の方針と、一時衝突したこともあったが、結局双方からあゆみよって、振付として高尾楓蔭氏、久松一声氏等が招聘され、第二期生として瀧川末子、篠原浅茅、人見八重子、吉野雪子の四名がくわわって、ここにはじめて宝塚少女歌劇養成会が
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