大胆な試みから日本在来の踊りでもない西洋のダンスでもない一種の新しい日本の踊りが生まれて来るのではないかと思っています。』
『まあそれは見てからの議論としましょう。』
『そうです。まあ一度見てやって下さい。私はやかましい議論を離れて大の贔屓なのですから。』
『それは子供らしい感情の方からですか。』
『そうです。私はその時分三つだった私の長男を連れて宝塚へ行ったのですが、其の時見た「桜大名」というのを未だに子供は忘れずにいるのです。もう五つになったのですが。』
『では、今度も子供衆のお供ですか。』
『子供のお供だか、子供がお供だか分らないのです。私の方が寧ろ楽しみにしている位ですから。』
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[#地から1字上げ](時事新報)

 この帝劇公演からはじめてお金をとって見せるようになった。東京へ行ったらすぐに高輪の毛利公爵の婦人教育会に招ばれた。帝劇へ出たのをきっかけに、新橋演舞場、歌舞伎座と出るようになって、これなら東京でもできるということがわかったから、今の東京宝塚劇場を建設するようにまでなった。
 このように宝塚が帝劇に出るようになり、今度は立派な小屋ができ、どんどん発展して行くと、今日のスターを映画に引抜かれると同じように、宝塚の作曲家の原田潤とか、舞踊を教える楳茂都陸平とか、そういう方面のスターをみんな持って行かれたことがある。それは松竹少女歌劇をつくるについて、スタッフを作曲から舞踊から演出から音楽からみんな宝塚から引っこ抜いて行った。そのときは非常に困ったけれども、あとからあとからといい人を養成して発展していった。

        意外な「花嫁学校」の実質

 前にも述べたように、私が宝塚音楽学校をつくって四十一年だ。その間卒業生が何人出たか、ずっと古い人から数え上げると二千人は出ているだろう。今わかっているので千数百人ある。大正十二年からは毎年五十人ずつ採って、それから、かれこれ三十年になるから、それだけでも千五百人、その前のごく初期には十人か十五人くらいだったから、ざっとみて五百人くらい、あわせて二千人ぐらいではないかと思う。
 そのうち、現在いわゆる芸能人として名をなしている人が三十七人しかいない。あとの千九百六十三人はどうしているかというと、ほとんど家庭の人となっている。これは無理もないと思うことで、今は学校の規則がかわって、
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