、つづいて数年間の苦悩時代を経験した。
 この苦況と闘う宝塚少女歌劇団の努力に、先ず最初に深い理解と同情を示したのは大阪毎日新聞社であった。そしてこれを広く社会に紹介するために、また一つには大毎慈善団の基金募集のために、大阪毎日新聞社主催の大毎慈善歌劇会を年末行事の催物として、例年開催するの運びとなり、第一回は大正三年十二月十一日より三日間、それは北浜の帝国座で催された。

 この大毎慈善歌劇会は、誕生後間もない宝塚少女歌劇を広く世間に認識させるに大いに役立った。幸いに好評をえて、その翌年もまた北浜の帝国座で公演したが、第三回目からは道頓堀の浪花座に進出して、殺到する観客を収容し切れない、という盛況だった。それで第五回目からは、中之島の中央公会堂で公演することになった。
 その他にも、鐘淵紡績慰安会、愛国婦人会慈善会、京都青年会大バザー、医科大学慈善会等各方面から招聘されて、大阪、京都、神戸に出張公演を行なった。
 この公演は経済的には頗る恵まれなかった。けれども、その前途に対してやや愁眉を開きうる見極めがついたので、その内容の充実をはかることが何よりの急務となった。そこで関西における舞踊界の新人、楳茂都陸平氏を振付に、また作曲者として三善和気、原田潤の両氏を歌劇団の教師に招いた。そして深刻な経営難に脅かされながらも、関係者の努力は、一歩一歩、この新しい舞台芸術の萠芽を育てていった。

        坪内逍遙博士の折紙

 当時、少女歌劇を御覧になった坪内博士は、宝塚少女歌劇集第一号(大正五年十月)に左の如き一文を寄せられている。
     愛らしき少女歌劇
[#地から1字上げ]文学博士 坪内逍遙
[#ここから2字下げ]
 私は予て主張して居る舞踊劇の立場からしても常に双手を挙げて歌劇の隆興を賛して居るものだが、なかなか現在の日本の社会では盛んな流行の見えて来そうな模様がない。その社会の現状に対して愛らしい少女歌劇などの出来たのは思いつきだといわなければなるまい。しかもその少女歌劇団にお伽のものを遣らせて少年少女を歌劇趣味に導きつつ徐々に社会の新趣味を向上させようとの思いつきは頗る適当な方法だと思う。
 一言に歌劇といっても、大きいのもあれば、小さいのもあり、深いのもあれば、浅いのもあるに違いないが、先ず現今では浅い小さいものから始めて行かなければなるまい。夫れに
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 一三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング