ちに映画の製作に一致すべき共通点があることを強調した。長谷川一夫、山田五十鈴のトリオが、如何に地方人を魅了し、優秀なる東宝色彩を維持しうるとしても、現在の映画企画は更に一歩を進めて、その観客層の請求に善処しなければ駄目であることを信じているからである。私のごとき無学な老人においてすらも、洋映画のタイトルも読めず、スクリーンの訳文にたよる低能な観客においてすらも、東宝、松竹、大映の千篇一律な古臭いものよりも、洋映画のもつ芸術味と、興味の深い筋の運び方、こんこんとして湧いてくる音楽の盛り上る力、俳優の真剣なる態度等々、何もかも、比較にならない程優越している米国映画の方が嬉しいのである。
 殊に遠からず天然色が輸入せらるる場合には、圧倒的に洋画の勢力に押えつけられることは、火を見るよりも明らかである。東宝の立場としては、現在のスター陣によって安閑たりうる時代ではないと思う。芝居にしても、映画にしても、彼等の御機嫌をとるよりも、彼等とともにお互いに自らを顧みて、奮励一番、改革をなすべき時である。たとえ一小部分なりとも、日本再建の使命をになう、映画界の指導者としての東宝は赤化組合に引ずられてまごつくよりも、全面的に御破算ですすむ大英断を必要とするときである。それには我々はハリウッドの企画製作監督等、敗戦国の今直ぐにどうするということは不可能であるとしても、その方面からの有力なる指導を得るために、工作する準備行為が必要である。現に、戦災復興院は優秀なる顧問採用に、その人選の交渉を進めている。東宝も亦、ハリウッドの新しい空気を入れることが急務である。然らざれば、放送において日本の出しものが軽視され、米軍の放送にさらってゆかれるごとくに、映画もまた同一運命に陥るものと信じている、という私の説明に対して、彼等は、
『誠に結構ですが、来て貰うならばハリウッド第一流の監督でなければ駄目だ。第二流以下では……』と、如何に理想は高い方がよいとしても、見当はずれの意見にこだわっている。第一流が来る筈もなければ、来られてはソロバンのけたがはずれて、倒産するに至るであろう。私は第二流第三流を問わない。彼等の新しい見方によって、新しい企画を樹てて貰うべしである。スターの誰彼と言わない。片隅にころがっている異彩ある新人が発見され、平凡でない却って変り種が利用されるかもしれない。
 それよりも、かれ等の
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 一三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング