釣好隠居の懺悔
石井研堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鱸《すずき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四百目|許《ばか》りなる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+糸」、175−上−10]《す》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)くつ/\
−−
中川の鱸《すずき》に誘《おび》き出され、八月二十日の早天《そうてん》に、独り出で、小舟を浮べて終日釣りけるが、思はしき獲物も無く、潮加減さへ面白からざりければ、残り惜しくは思へども、早く見切りをつけ、蒸し暑き斜陽に照り付けられながら、悄々として帰り途《みち》に就けり。
農家の前なる、田一面に抽《ぬ》き出でたる白蓮の花幾点、かなめの樹の生垣を隔てゝ見え隠れに見ゆ。恰も行雲々裡に輝く、太白星の如し。見る人の無き、花の為めに恨むべきまでに婉麗《えんれい》なり。ジニアの花、雁来紅《がんらいこう》の葉の匂ひ亦、疲れたる漁史を慰むるやに思はれし。
小村井に入りし時、兼《かね》て見知れる老人の、これも竿の袋を肩にし、疲れし脚曳きて帰るに、追ひ及びぬ。この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、曾《かつ》て二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。
甲者は言へり。『彼《か》の老人は、横網にて、釣好きの隠居とさへ言へば、巡査まで承知にて、年中殆んど釣にて暮らし、毎月三十五日づゝ、竿を担ぎ出づ』といふ『五日といふ端数は』と難ずれば、『それは、夜釣を足したる勘定なり』と言ひき。
又乙者は言へり。『彼の老人の家に蓄ふる竿の数は四百四本、薬味箪笥の抽斗数に同じく、天糸《てぐす》は、人参を仕入るゝ序《ついで》に、広東《かんとん》よりの直《じき》輸入、庭に薬研状《やげんなり》の泉水ありて、釣りたるは皆之に放ち置く。若《も》し来客あれば、一々この魚を指し示して、そを釣り挙げし来歴を述べ立つるにぞ、客にして慢性欠伸症に罹らざるは稀なり。』と言ふ。
兎も角、釣道の一名家に相違無ければ、道連れになりしを、一身の誉れと心得、四方山《よもやま》の話しゝて、緩かに歩《あし》を境橋の方に移したりしに、老人は、いと歎息しながら一条の物語りを続けたり。
『この梅園の前を通る毎に、必ず思ひ起すことこそあれ。君にだけ話すことなれば、必ず他人には語り伝へ給ふべからず。
『想へば早数年前となりぬ。始めて釣道に踏み入りし次の年の、三月[#「三月」に傍点]初旬なりしが、中川の鮒釣らんとて出でたりし。尺二寸[#「尺二寸」に傍点]、十二本[#「十二本」に傍点]継の竿を弄して、処々あさりたりしも、型も見ざりければ、釣り疲れしこと、一方ならず、帰らんか、尚一息試むべきかと、躊躇する折柄《おりから》、岸近く縄舟を漕ぎ過ぐるを見たり。「今捕るものは何ぞ」と尋ねしに、「鯉なり」と答ふ。「有らば売らずや」と言へば、「三四本有り」とて、舟を寄せたり。魚槽《かめ》の内を見しに、四百目|許《ばか》りなるを頭《かしら》とし、都合四本見えたりし。「これにて可し」とて、其の内最も大なるを一本買ひ取りしが、魚籃《びく》は少《ちい》さくして、素《もと》より入るべきやうも無かりければ、鰓《えら》通して露はに之を提《さ》げ、直《ただち》に帰り途に就けり。
『さて田圃道を独り帰るに、道すがら、之を見る者は、皆目送して、「鯉なり鯉なり、好き猟《りょう》なり」と、口々に賞讃するにぞ、却つて得意に之を振り廻したれば、哀れ罪なき鯉は、予の名誉心の犠牲に供せられて、嘸《さぞ》眩暈《めんけん》したらんと思ひたりし。
『やがて、今過ぎ来りし、江東梅園前にさし掛りしに、観梅の客の、往く者還る者、織《お》る如く雑沓したりしが、中に、年若き夫婦連れの者あり。予の鯉提げ来りしを見て追ひかけ来り、顔を擦るまで近づきて打ち眺め、互に之を評する声聞こゆ。婦人の声にて、「貴方の、常にから魚籃にて帰らるゝとは、違ひ候」など言ひしは、夫の釣技の拙きを、罵るものと知られたり。此方《こなた》は愈大得意にて、故《ことさら》に徐《しずか》に歩めば、二人は遂に堪へ兼ねて、言葉をかけ、予の成功を祝せし後、「何処にて釣り候ぞ」と問へり。初めより、人を欺くべき念慮は、露無かりしなれども、こゝに至りて、勢ひ、買ひたるものとも言ひ兼ねたれば、「平井橋の下手にて」と、短く答へたり。当時は、予《われ》未だ、鯉釣を試みしこと無かりしかば、更に細かに質問せらるゝ時は、返答に差支ふべきを慮り、得意の中にも、何となく心安からざりし。
『後にして之を想へば、よし真に自ら釣りしとするも、彼《か》の時携へし骨無し
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石井 研堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング