ツてたです。引き上げさせて見ると、すツかり泥塗《どろまみ》れでとても乗れやしない。さればといふて、歩いて還ることの出来ない貨物《しろもの》なので、已《やむ》を得ず、氷のやうな泥の中に、乗り込んで、還ツたことあるですが、既に釣を以て楽しまうとする上は、此の位の辛抱は、何とも思はんです。』
客『まだ御飯前ですから、失礼いたします。』
主『釣を始めると、御飯[#「御飯」に傍点]などは頓と気にならず、一度や二度食べずとも、ひだるく思はんのが不思議です。それに、万事|八釜《やかま》しいことを言はぬやうになるのが、何より重宝です。度々釣に出かけると、何だか知れないが、家の者に気兼するやうな風になツて、夜中に、女どもを起すでも無いと、自分独り起きて炊事することも有るですし、よし飯焚を為《し》ないにしても、朝飯とお弁当は、お冷でも善い、菜が無いなら、漬物だけでも苦しうない、といふ工合で、食ぱんのぽそ/\も、噎《むせ》ツたいと思はず、餌を撮《つま》んだ手で、お結《むす》びを持ツても、汚いとせず、極《ごく》構はず屋に成るから、内では大喜びです。』
と、何が何やら分らぬ話しながら、続けざまの包囲攻撃に、客は愈《いよいよ》逃げ度を失ひて、立膝になり、身をもぢ/″\して、
『少し腹痛しますから、失礼します。』
と腹痛の盾をかざして起たんとす。主人は尚、
主『腹痛なら、釣に限るです。釣ほど消化を助くるものは無いですから、苦味丁幾《くみちんき》に重曹|跣足《はだし》で逃げるです。僕は、常に、風邪さへ引けば釣で直すです。熱ある咳が出るとしても、アンチピリンや杏仁水《きょうにんすい》よりは、解熱鎮咳の効あるです。リウマチも、釣を勉めて、とう/\根治したです。竿の脈の響を、マツサアージなり、電気治療なりとし、終日日に照されるを、入湯と見れば、廻り遠い医者の薬よりは、其の効神の如しです。殊に呼吸器病を直すには、沖釣に越す薬無いと、鱚庵老《きすあんろう》の話しでしたが、実際さうでせう。空気中のオゾンの含量が、全《まる》で違ツてるですもの。』
立膝のまゝなる客は、ほと/\困りて揉手をしながら、
『まだ二三ヶ所寄る所ありますから…………。』
と、一つ頓首《とんしゅ》すれども、主人は答礼《とうれい》どころか、
主『野釣[#「野釣」に傍点]は、二三ヶ所に限らず、十ヶ所でも、二十ヶ所でも、お馴染みの場所に、寄ツて見んければいかんです。其の中《うち》にぶツつかるですから…………。併し、不精者にはだめです。要所々々を、根よく攻めて歩かんければならんですもの。』
と、右の手を水平に伸べ、緩かに上下して、竿使ふ身振りしながら、夢中に語り続けて、何時已むべしとも見えず。立往生の客ばかり、哀れ気の毒に見えたりしが、恰も好し、某学校の制服着けたりし賀客両人、入り来りしかば、五つ紋の先客は、九死の場合に、身代りを得たる思を為し、匆々《そうそう》辞して起ちたりしが、主人は尚分れに臨み、
『それなら、四日の朝四時までに、僕の家に来給へ。道具も竿も、此方で揃ひてやるから、身体ばかり…………。霜が、雪の様に有ツてくれゝば、殊に好いがね。』
と、※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]《くさび》をさしぬ。
この翌日届きし、賀状以外の葉書に、
『拝啓。昨日は永々御邪魔仕り、奉謝候。帰宅候処、無拠《よんどころなき》用事出来、乍残念、来四日は、出難く候間、御断《おことわり》申上候。此次御出遊の節、御供仕度楽み居り候。頓首。』
と、有りければ、主人は之を見ながら、
『又拠ろ無き用事か。アハヽヽヽヽヽ。』
底本:「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」作品社
1995(平成7)年8月10日第1刷発行
底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館
1906(明治39)年12月発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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