とひ鈎に懸ツても、余り暴れんです。寒中のは[#「寒中のは」に傍点]殊にすなほに挙るですが、此の位になると、さう無雑作にからだを見せず、矢張鯉などの様に、暫くは水底でこつ/\延《の》してるです。其れを此方は、彼奴《きゃつ》の力に応じて、右に左にあしらツて、腹を横にしても、尚時々暴れるのを、だまして水面を徐《しずか》にすーツと引いて来て、手元に寄せる、其の間の楽み[#「楽み」に傍点]といふたら、とてもお話しにならんですな。』
客『此の身幅[#「身幅」に傍点]は、全《まる》で黒鯛の恰好ですね。』
客も亦、箸を付けて、少しくほぐす。
主『鮒は、大きくなると、皆|此様《こん》な風になるです。そして、泥川のと違ひ[#「泥川のと違ひ」に傍点]、鱗に胡麻班《ごまぶち》など付いてなくて、青白い銀色の光り、そりやア美しいです。話し許《ばか》りじやいかんから、君|解《ほぐ》してくれ給へ。』
客『え、自由に頂きます。此れは、何処でお釣りになツたのです。』
主『江戸川です。俗に利根[#「利根」に傍点]利根といふてる行徳の方の…………。』
客『随分遠方までお出《いで》になるですな。四里は確にございませう。』
主『その位は有るでせう。だが、行徳行の汽船が、毎日大橋から出てるので、彼《あ》れに乗るです。船は方々に着けるし、上ると直ぐ釣場ですから、足濡らさずに済むです。彼《あ》の船の一番発[#「一番発」に傍点]は、朝の六時半でして、乗客の六七分は、何時も釣師で持ち切りです。僕等はまだ近い方で、中には、品川、新宿、麻布辺から、やツて来る者も大分有るです。まア、狂の病院船でせう。』
主人の雄弁、近処|合壁《がっぺき》を驚かす最中、銚子を手にして出で来れるは、細君なり。客と、印刷的の祝詞の交換済みて、後ち、主人に、
『暖《あったか》い処《とこ》をお一つ。』と、勧むるにぞ、
主人、之を干して、更に客に勧むれば、客は、
『まだ此の通り…………』と、膳上の杯を指《ゆびさ》して辞退しつゝ受く。
細『何もございませんが、どうぞ、召上つて…………。』
客『遠慮なしに、沢山頂戴しました。此の鮒は、どうも結構ですな。珍らしい大きなのが有ツたもんですな。』
細『昨日も宿《やど》と笑ひましたのでございます。鮒釣鮒釣と申しまして、此の寒いに、いつも暗い内から出まして、其れも、好く釣れますならようございますが、中々さうも参りません。
細『これは、昨日何時も川魚を持ツて来ます爺やから取りましたのでございますが、さう申しては不躾ですけれども、十|仙《せん》に二枚でございます。家にじツとしてゝ取ります方が、何《ど》の位お廉《やす》いか知れませんです。』
と、鮒の出処の説明に取りかゝる。
主人は、口を特《こと》に結びて、睨《ね》みつけ居たりしが、今、江戸川にて自ら釣りしといひし鮒を、魚屋より取りしと披露されては、堪へきれず、其の説の終《おわ》るを待たず、怒気を含みて声荒々しく、
『おい/\、此の鮒は、僕の釣ツたのだらう。』
細『左様《そう》じやございませんよ。昨日、千住の爺やが持ツて参ツたのでございます。』
主『僕の釣ツたな、どうして。』
細『何時まで有るもんですか。半分は、焼きます時に金網の眼からぬけて、焦げて仕舞ひましたし、半分は、昨日のお昼に、召し上りましたもの。』
主『さうか。これは千住のか。道理で骨が硬くて、肉《み》に旨味が少いと思ツた。さきから、さう言へば好《い》いに…………。』
きまり悪さの余り、旦那といふ人格を振り廻して、たゞ当り散らす。客は気の毒|此《こ》の上なく、
『千住でも、頗る結構です。』など、
言ひ紛らせども、細君は、其の仔細を知る由《よし》なく、唯もみ手して、もぢ/″\するのみなり。一座甚だ白けたりければ、細君は冷めたる銚子を引きてさがる。主人、更に杯を勧めて、
『此様《こん》な不美《まずい》のを買ツたりして、気の利かないツて無いです。』と罪を細君に嫁《か》す。客は、
『大分結構ですよ。』と、なだめしが、此の場合、転換法を行ふに如かずと思量してか、
『随分お好きの方が多いですが、其様《そん》なに面白いものでせうか。』と
木に竹を接《つ》ぐ問を起す。
『骨牌《かるた》、茶屋狂ひ、碁将棋よりは面白いでせう。其れ等の道楽は、飽きて廃《よ》すといふこともあるですが、釣には、それが無いのですもの。』
至つて真面目に答へたりしが、酔も次第に廻り来りしかば、忽ち買入鮒以前の景気に直り、息荒く調子も高く、
主『深さは、幾尋とも知れず、広さは海まで続いてる水の世界に、電火|飛箭《ひせん》の運動を為《し》てる魚でせう。其れを、此処に居るわいと睨んだら、必ず釣り出すのですから、面白い[#「面白い」に傍点]筈です。
主『物は試しといふから、騙されたと思ツて、君もたツた一度往ツて見給へ。彼奴《きゃつ》を引懸けて、ぶるぶるといふ竿の脈が、掌に響いた時の楽みは、夢にまで見るです。併し、其れが病みつきと為ツて、後で恨まれては困るが…………。』
客『幾らか馴れないでは、だめでせう。』
主『なアに釣れるですとも。鮒ほど餌つきの良い魚[#「餌つきの良い魚」に傍点]は無いですから、誰が釣ツても上手下手無く、大抵の釣客《つりし》は、鮒か沙魚《はぜ》で、手ほどきをやるです。鯉《こい》は、「三日に一本」と、相場の極ツてる通り、溢《あぶ》れることも多いし、鱚《きす》、小鱸《せいご》、黒鯛《かいず》、小鰡《いな》、何れも、餌つきの期間が短いとか、合せが六ヶ《むつか》しいとか、船で無ければやれないとか、多少おツくうの特点有るですが、鮒つりばかりは、それが無いです。長竿、短竿、引張釣、浮釣、船に陸《おか》に何れでもやれるし、又其の釣れる期間が永いですから、釣るとして不可なる[#「釣るとして不可なる」に傍点]点なしで、釣魚界第一の忠勤ものです。
主『殊に、其の餌つき方[#「餌つき方」に傍点]が、初め数秒間は、緩く引いて、それから、徐《しず》かにすうツと餌を引いてく。其の美妙さは、全《まる》で詩趣です。
主『沙魚も、餌つきの方では、卑下《ひけ》を取らず、沢庵漬でも南京玉でも、乱暴に食い付く方ですが。其殺風景は、比べにならんです。仮令《たとえ》ば、沙魚の餌付[#「沙魚の餌付」に傍点]は、でも紳士の立食会に、眼を白黒して急《せ》き合ひ、豚の骨《あら》を舐《しゃぶ》る如く、鮒は[#「鮒は」に傍点]妙齢のお嬢さんが、床の間つきのお座敷に座り、口を細めて甘気の物を召し上る如く、其の段格は全で違ツてるです。
主『合せ方[#「合せ方」に傍点](引懸けるを合せといふ)といふて、外に六ヶしいことなく、第一段で合せて、次段で挙げる丈けですが…………。』
と言ひかけしが、起《た》ちて、椽側の上に釣れる竿架棚《さおだな》の上なる袋より、六尺程の竿一本を抽《ぬ》き取り来りて、之を振り廻しながら、
主『竿は長くても短くても、理窟は同しですが、斯《か》う構へて中《あた》りを待ツてるでせう。やがて、竿頭《さおさき》の微動で、来たなと思ツても、食ひ込むまで、構はず置くです。鮒ですから…………。幾らか餌を引いてくに及んで始めて合せる[#「合せる」に傍点]です。合せるとは引くことで、たとへば、竿の手元一寸挙げれば、竿頭では一尺とか二尺挙り、ふわりと挙げると、がしツと手応へし、鈎は確かに彼奴《きゃつ》の顎に刺さツて仕舞ひ、竿頭の弾力は、始終上の方に反撥しようとしてるので、一厘の隙も出来ず、一旦懸ツたものは、外《はず》れツこ無しです。竿の弾力[#「竿の弾力」に傍点]も、この為めに必要なのです。斯う懸けてさへ仕舞《しま》へば、後はあわてずに、綸《いと》を弛めぬ様に、引き寄せるだけで、間違ひ無いです。
主『然るを、初心《うぶ》の者に限ツて、合せと挙るを混同し、子供の蛙釣の様に、有るツ丈《た》けの力で、かう後の方へ、蜻蛉返り打せるから…………。』
と立膝に構へて、竿を宙に跳《はね》る途端に、竿尖は※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間の額面を打ちて、みりツと折れ、仰ぎ見て天井の煤に目隠しされ、腰砕けてよろ/\と、片手を膳の真只中に突きたれば、小皿飛び、徳利ころび、満座酒の海となれり。主人は、尚竿を放たず、
『早く/\、手拭持つて来い。早く/\。』
と大に叫ぶ。客は身をひねりて、座布団の片隅を摘み上げ、此の酒難を免れんとしたりしが、其の時既に遅く、羽織と袴の裾とは、酒浸しとなり、
『少しきり、濡れませんでした。』
と、自ら手拭出して拭きたりしも、化学染めの米沢平、乾ける後には、定《さだ》めて斑紋《ぶち》を留めたらん。気の毒に。
主人は、下婢に座席を拭かせ、膳を更《あらた》めさせながら又話しを続けたり。
主『合せ[#「合せ」に傍点]が頑固ですと、斯様《こん》な失敗を食ふです。芝居の御大将|計《ばか》りで無く、釣は総て優悠迫らず有りたいです。此処にさへ御気が付けば、忽ち卒業です。どうです、一度往ツて見ませんか。僕は此の四日に往くですが…………。』
客『竿は、何様《どん》なのが好いです。一本も持ちませんが。』
少しは気の有りさうなる返事なり。
主『あの通り、やくざ竿が、どツさり有るですから、彼《あ》れを使ひ給へ。使はんでおくと、どうせ虫くふていかんです。』と、竿架棚を指し言ふ。
客『只の一疋でも、釣れゝば面白いですが、釣れませうか。』
此れ、釣りせざる者の、必ず言ふ口上なり。
主『そりア、富籤と違ツて、屹度《きっと》釣れる保証をするです。若し君が往くとすれば、僕は必勝を期して、十が十まで、必ず釣れる方策《ほうさく》に従ふから、大丈夫です。此の節の鮒釣[#「此の節の鮒釣」に傍点]には、河の深みで大物を攻めるのと、浅みに小鮒を攻めるのと、又用水堀等の深みで、寄りを攻めるのなど、いろ/\有るですが、必ず外れツこ無しを望むには、型の小さいを我慢して、この第二法をやるです。君が釣ツても、一束は楽に挙り、よく/\の大風でもなければ、溢れる気使ひは決して無いです。朝少し早く出かけて、茅舎《ほうしゃ》林園の、尚|紫色《むらさき》、濛気《もや》に包まれてる、清い世界を見ながら、田圃道を歩く心地の好いこと、それだけでも、獲物は已《すで》に十分なのです。それから、清江に対して、一意専心、竿頭《さおさき》を望んでる間といふものは、実に無我無心、六根清浄の仏様か神様です。人間以上の動物です。たツた一度試して見給へ。二度目からは、却《かえ》ツて、君が勧めて出るやうにならうから…………。』
と、元来の下戸の得には、僅一二杯の酒にて、陶然酔境に入り、神気亢進、猩々《しょうじょう》顔に、塩鰯《しおいわし》の如き眼して、釣談泉の如く、何時果つべしとも測られず。客は、最初より、其の話を碌々《ろくろく》耳にも入れず、返辞一点張りにて応戦し、隙も有らば逃げ出さんと、其の機を待てども、封鎖厳重にして、意の如くならず、時々の欠伸を咳に紛らし、足をもぢ/″\して、出来得る限り忍耐したりしも、遂に耐《こら》へられずして、座蒲団を傍に除《の》け、
『車を待たせて置きましたから…………。』
と辞して起たんとす。主人は、少しも頓着せず、
主『僕も、車を待たせて、釣ツたことあるです。リウマチを病んでた時、中川の鮒が気になツて堪らず、といふて往復に難義なので、婚礼の見参と、国元の親爺の停車場《すていしょん》送りの外は、絶えて頼んだことの無い宿車を頼んで、出かけたです、土手下に車を置かせ僕は川べりに屈んで竿をおろしたでせう。
主『初めの内は、車夫が脇に付いてゝ、「旦那まだ釣れませんか、まだ釣れませんか」と、機嫌《きげん》を取りながら、餌刺の役を勤めてゝ呉れたが、二三時間の後には、堤根腹《ねはら》に昼寝して仕舞ひ、僕は結句気儘に釣ツてたです。
主『生憎《あいにく》大風が出て来て、※[#「魚+與」、第4水準2−93−90]《たなご》位のを三つ挙げた丈で、小一日暮らし、さて夕刻|還《かえ》らうとすると、車は風に吹き飛ばされたと見え、脇の泥堀《どぶ》の中へ陥《のめ》
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