、たとへば、竿の手元一寸挙げれば、竿頭では一尺とか二尺挙り、ふわりと挙げると、がしツと手応へし、鈎は確かに彼奴《きゃつ》の顎に刺さツて仕舞ひ、竿頭の弾力は、始終上の方に反撥しようとしてるので、一厘の隙も出来ず、一旦懸ツたものは、外《はず》れツこ無しです。竿の弾力[#「竿の弾力」に傍点]も、この為めに必要なのです。斯う懸けてさへ仕舞《しま》へば、後はあわてずに、綸《いと》を弛めぬ様に、引き寄せるだけで、間違ひ無いです。
主『然るを、初心《うぶ》の者に限ツて、合せと挙るを混同し、子供の蛙釣の様に、有るツ丈《た》けの力で、かう後の方へ、蜻蛉返り打せるから…………。』
と立膝に構へて、竿を宙に跳《はね》る途端に、竿尖は※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間の額面を打ちて、みりツと折れ、仰ぎ見て天井の煤に目隠しされ、腰砕けてよろ/\と、片手を膳の真只中に突きたれば、小皿飛び、徳利ころび、満座酒の海となれり。主人は、尚竿を放たず、
『早く/\、手拭持つて来い。早く/\。』
と大に叫ぶ。客は身をひねりて、座布団の片隅を摘み上げ、此の酒難を免れんとしたりしが、其の時既に遅く、羽織と袴の裾とは、酒浸しとなり、
『少しきり、濡れませんでした。』
と、自ら手拭出して拭きたりしも、化学染めの米沢平、乾ける後には、定《さだ》めて斑紋《ぶち》を留めたらん。気の毒に。
主人は、下婢に座席を拭かせ、膳を更《あらた》めさせながら又話しを続けたり。
主『合せ[#「合せ」に傍点]が頑固ですと、斯様《こん》な失敗を食ふです。芝居の御大将|計《ばか》りで無く、釣は総て優悠迫らず有りたいです。此処にさへ御気が付けば、忽ち卒業です。どうです、一度往ツて見ませんか。僕は此の四日に往くですが…………。』
客『竿は、何様《どん》なのが好いです。一本も持ちませんが。』
少しは気の有りさうなる返事なり。
主『あの通り、やくざ竿が、どツさり有るですから、彼《あ》れを使ひ給へ。使はんでおくと、どうせ虫くふていかんです。』と、竿架棚を指し言ふ。
客『只の一疋でも、釣れゝば面白いですが、釣れませうか。』
此れ、釣りせざる者の、必ず言ふ口上なり。
主『そりア、富籤と違ツて、屹度《きっと》釣れる保証をするです。若し君が往くとすれば、僕は必勝を期して、十が十まで、必ず釣れる方策《ほうさく》に従ふから、大丈夫です。此の節の鮒釣[#「此の節の鮒釣」に傍点]には、河の深みで大物を攻めるのと、浅みに小鮒を攻めるのと、又用水堀等の深みで、寄りを攻めるのなど、いろ/\有るですが、必ず外れツこ無しを望むには、型の小さいを我慢して、この第二法をやるです。君が釣ツても、一束は楽に挙り、よく/\の大風でもなければ、溢れる気使ひは決して無いです。朝少し早く出かけて、茅舎《ほうしゃ》林園の、尚|紫色《むらさき》、濛気《もや》に包まれてる、清い世界を見ながら、田圃道を歩く心地の好いこと、それだけでも、獲物は已《すで》に十分なのです。それから、清江に対して、一意専心、竿頭《さおさき》を望んでる間といふものは、実に無我無心、六根清浄の仏様か神様です。人間以上の動物です。たツた一度試して見給へ。二度目からは、却《かえ》ツて、君が勧めて出るやうにならうから…………。』
と、元来の下戸の得には、僅一二杯の酒にて、陶然酔境に入り、神気亢進、猩々《しょうじょう》顔に、塩鰯《しおいわし》の如き眼して、釣談泉の如く、何時果つべしとも測られず。客は、最初より、其の話を碌々《ろくろく》耳にも入れず、返辞一点張りにて応戦し、隙も有らば逃げ出さんと、其の機を待てども、封鎖厳重にして、意の如くならず、時々の欠伸を咳に紛らし、足をもぢ/″\して、出来得る限り忍耐したりしも、遂に耐《こら》へられずして、座蒲団を傍に除《の》け、
『車を待たせて置きましたから…………。』
と辞して起たんとす。主人は、少しも頓着せず、
主『僕も、車を待たせて、釣ツたことあるです。リウマチを病んでた時、中川の鮒が気になツて堪らず、といふて往復に難義なので、婚礼の見参と、国元の親爺の停車場《すていしょん》送りの外は、絶えて頼んだことの無い宿車を頼んで、出かけたです、土手下に車を置かせ僕は川べりに屈んで竿をおろしたでせう。
主『初めの内は、車夫が脇に付いてゝ、「旦那まだ釣れませんか、まだ釣れませんか」と、機嫌《きげん》を取りながら、餌刺の役を勤めてゝ呉れたが、二三時間の後には、堤根腹《ねはら》に昼寝して仕舞ひ、僕は結句気儘に釣ツてたです。
主『生憎《あいにく》大風が出て来て、※[#「魚+與」、第4水準2−93−90]《たなご》位のを三つ挙げた丈で、小一日暮らし、さて夕刻|還《かえ》らうとすると、車は風に吹き飛ばされたと見え、脇の泥堀《どぶ》の中へ陥《のめ》
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