研堂釣規
石井研堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勉《つと》むる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)良|竿《かん》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)職業[#「職業」に傍点]
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 人は、遊ばんが為めに職業に勉《つと》むるに非ず、職業[#「職業」に傍点]に勉めしが為めに遊ぶなり。釣遊《ちょうゆう》に、前後軽重の分別有るを要す。
[#ここから2字下げ]
日曜一日の休暇は、其の前六日間職業に勉めし賞与にして、其の後六日間の予備に非ず。若し、未だ勤苦せざるに、先づ休養を名として釣遊に耽らば、身を誤り家を破るの基《もとい》、酒色の害と何ぞ択ばん。
[#ここで字下げ終わり]

 単に、魚のみを多く獲んことを望むべからず、興趣[#「興趣」に傍点]多きを望むべし。
[#ここから2字下げ]
釣遊の目的は、素《もと》より魚を獲るにあれども、真の目的物は、魚其の物に非ずして、之を釣る興趣《きょうしゅ》にあり。故に、風候水色の好適なる裡に、細緡香餌《さいぴんこうじ》を良|竿《かん》に垂れ、理想の釣法を試むことを得ば、目的こゝに達したるなり。魚の多少と大小は、また何ぞ問ふを須《もち》ひん。
[#ここで字下げ終わり]

 釣遊は、養神摂生の為めのみ。養神摂生[#「養神摂生」に傍点]に害あるは釣遊の道に非ず。
[#ここから2字下げ]
不快の言を聴き、不快の物を見れば、神を害し、険を冒し危を踏めば、生を害す。異臭ある地に釣り、汚池《おち》に釣り、禁池に釣り、鈎《はり》さきを争ひて釣り、天候を知らずして海上に釣り、秋の夜露に打たれて船に釣り、夏の午日に射られて岡に釣り、早緒《はやお》朽ちたる櫓を執り、釘《くぎ》弛《ゆる》みたる老船に乗りて釣る如きは、総て釣遊の道に非ず。
[#ここで字下げ終わり]

 金銭にけちなる釣遊[#「けちなる釣遊」に傍点]は、却て不廉《ふれん》なる釣遊なり。
[#ここから2字下げ]
僅々一二銭の餌を買へば、終日岡釣して楽むべく、毎日出遊するも、百回一二円の出費に過ぎず、これ程|至廉《しれん》の遊楽天下に無しと言ふ者あり。されども、これ愚人の計算にて、家業を荒廃し、堕落を勧《すす》むる魔言と謂ふべし。吾輩《ごはい》の惜む所は、餌代船賃に非ずして、職業を忘るゝ損害の大なるにあり。たとひ、一回の出遊に一二円を費すとも、度数を節して遊ぶべき日にのみ遊ぶ時は、其の暢情《ちょうじょう》快心の量却ツて大きく、費す所は至ツて小なり。至廉とは、彼に当つべき価に非ずして、此に当つべき価なり。
[#ここで字下げ終わり]

 十分確信したる釣日和[#「釣日和」に傍点]に非ざれば、出遊せず。
[#ここから2字下げ]
水色なり、風向なり、気温なり、気圧なり、総て想ふ所に適ひ、必勝疑はざる日には、宵立して数里の遠きに遊ぶも好し。それにてさへ、まゝ想はざる悪水悪天候に遭ひ、失敗すること少からず。况《ま》して初めより、如何あらんと疑弐《ぎじ》する日に出でゝ、興趣を感ずべき筈なし、徒《ただ》に時間と金銭を費すに過ぎず。如《し》かず十全の日を待ちて、遺憾無く興趣を釣り、悠々塵外の人となりて、神を養ひ身を休め、延年益寿の真訣《しんけつ》を得んには。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「集成 日本の釣り文学 第一巻 釣りひと筋」作品社
   1995(平成7)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館
   1906(明治39)年12月発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
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